忍の一字は衆妙の門 江川邸

韮山城から西側の下の韮山高校とは逆方向、東側の山並みに至る麓に旧江川邸があります(場所はここ)。

韮山高校野球部が甲子園出場記念として城址真下のグラウンドの隅に建てられた碑の上に飾られた野球ボールには「忍」の一字が記されていました。

それにしても今回の常葉菊川は甲子園で見苦しい試合を見せましたね。

まぁ監督責任といえばそれまででしょうが、ちょっぴり恥ずかしい1―17の得点差。

見る方に「忍」を強要されたような試合でした。

 

 現伊豆の国市、韮山の反射炉で名を成した江川英龍の江川家は江戸初期より幕末に至るまで幕府の代官を勤めた家柄です。大和源氏を祖とする宇野氏系といい、保元乱で敗走し従者十三名とともにこの地に落ち、定住したそうです。

革新的な思想を持った当家36代目の江川英龍(坦庵)は幕末時、国内沿岸域の防衛システム(西洋砲術)を渡辺崋山らと考案して代官あがりで幕府勘定吟味役まで上り詰め、勘定奉行の沙汰寸前で病没しました。彼の大砲、砲弾、農兵軍、造船講義の門下に木戸孝允・佐久間象山・橋本佐内らがいました。

東京のお台場の築造も彼の手です。

 

当家の家訓は「忍」。画像①は坦庵の書。

「衆妙」とは「すべてのすぐれた道理」、「忍」(強い心)こそ何をするにおいても必須の構えであることを伝えています。

渡辺崋山らが捕縛、獄死させられ、江川英龍本人も当初マークされていた中、西洋流の兵法について独自に摂取していきました。

 

今韮山に残る家屋は室町地代をベースに江戸時代初期のもの、改修の手が入っていますが、かなり大振りの古民家という感じで、重要文化財に指定されています。

昔は茅葺屋根でしたが直近の改変で銅板葺きになっています。しかし、内部は圧巻です。

 

展示品も豊富で最近当家からの古文書のさらなる研究が進んでいて、新聞紙上を時折賑わしています。