当家の庫裏の造りは典型的な「夏暑く冬寒い」系です。
築150年余経過の家に付け足し補修し、だましだまし棲んでいますが、普段使用している台所と居間をぶち抜いた部屋の隣に「猫部屋」と呼んでいる洗濯部屋があります。夏の午後の温度計がコレです。
西側に木々など遮蔽物が無いため午後の直射日光は強烈でその隣のガラス戸を通した私どものいる部屋はエアコン設置はあるものの力量不足か絶対に30℃以下にはなりません。
よってツイン扇風機にて誤魔化していますが、基本は低姿勢に尽きますね。できるだけ姿勢を低くすることがコツです。床に近い方が相当心地いいからです。要は寝っ転がっていることです。
本日は15日も過ぎて秋の気配なども何となく感じられ(どうしても毎年のことですが8/15を過ぎると宿題もあるワケではないのですが気が焦り出します)、他にも色々と何やら積み重なり、どうにも成らぬ気持ちのはけ口を求めて、愚息を引き連れ地頭方の海に向かいました。
朝から吉田と相良を往復して無い頭を駆使して時間調整、某家に行ったり来たり、法務が完全に終わったのが16時30分でした。
というワケで地頭方に到着するや否や1700時の市内の時報。
今年初めて入る海にて
1.水温はいったいどんなものか
2.透明度はどんなものか
3.どれほど気分がいいものか
チャレンジしたかったのでした。
ここは埠頭の脇にハシゴが付いているため飛び込み遊びができる場所ですので中高生のたまり場でもあります。
丁度、イカの夜釣りの釣人も場所取りをしに来ますが少年たちはお構いなしで飛び込んでいます。
ちなみに私はここに来る連中には微笑ましく見守っています。今時この手の遊びをする子供は少なくなってしまいましたので。
1800時近くになっても飛び込みポイントは「混雑」していましたが、私たちはのこの日は飛び込みでは無くシュノーケルと足ひれ持参、ジャブ程度の限定海遊びです。
やはり夕方の海は太陽光の入射角が浅いため海の中は影が出来ていることと、温度が高くてストレスはないものの案外と浮遊物が多くて視界は良くありませんでした。
沖縄の海からすれば話になりませんが、しかし、絶好の避暑遊びであることは間違いありません。
ああ、東電フクシマの「マーライオン」(高濃度汚染水の海洋流出のことを規制委内部でマーライオンと呼んでいるそうです)の事はまったく忘れていましたよ。
家に居ることなど考えられませんね。いかに海が心地よいことか。
私の好きな海は「地頭方」(場所はここ)ですが興味深い地名です。そちらから相良寄りの地名が「落居」。
スンナリ読めば「落ち人が居た」場所でしょうか。
何かの戦に負けて此の地に定住したということかも知れません。
そしてもう一つそのお隣が「地代」。「守護代」という役職がありましたがその地頭版の「地頭代」の省略の様。
地頭代は鎌倉時代の遠隔地所領に派遣された代官の事ですね。
地頭方、落居、地代の地名は旧相良町の西海岸部に連なった部落の名です。
コメントをお書きください
中山 (水曜日, 23 4月 2014 11:32)
落居地区に中山の苗字が何件もありますが高天神城の戦いにいた中山是非之助の子孫でしょうか
今井一光 (木曜日, 24 4月 2014 07:42)
ありがとうございます。
落居地区には「小塚」、「曽根」と並んで「中山」姓が目立ちますね。
増田実氏の「高天神城址案内」によれば
「中山是非助」 姉川七本槍
榛原郡湯日村(島田市初倉の内)を知行した。天正二年落城後、甲州に行き、さらに奔って浪人し、のち三州岡崎に老衰した。(甲斐国誌)
とあります。
「初倉」は今は島田市になっていますが、古くから「榛原郡」。当地と同じくくりがされた地域であり、かかわりの深い場所です。
あくまでも推測で、現状確信を得ていませんが、中山是非助は小笠原と一處して甲州側に付く選択を採ったため、織田の武田方殲滅の方針に初倉に残った中山一統は雌伏忍従の時代となったことでしょう。そういう事から史料に恵まれず、歴史の表に出てこないという現象につながってしまっているようです。
その際、初倉地区から「落居」に流れて名を伏せ、徳川時代になって武田家臣団への温情が流布されてからその名を名のった可能性もあります。
もっとも帰農していれば苗字を名のりませんので、明治以後になって本家筋がその伝え聞く名のりをした可能性もあります。
幕末期の茶畑の開拓期に牧之原台地南岸の開拓で定住したのかも知れません。
ただし、日露戦争時の国民すべてに苗字が付く法令が出された際、「適当に近隣有力者と同じ」苗字を採用することも多々ありましたので、近所に「同姓」が集中することがあって、元がすべて同族であるとも限りません。
いづれにせよ推測の域ですので、また何かわかりましたら記させていただきます。
中山様にも中山家について伝わる縁をお知らせいただければ幸いです。今後ともよろしくお願いいたします。
中山義隆 (木曜日, 25 9月 2014 22:21)
落居地区の弘法寺のお墓の一番奥に武田氏の家紋が入った墓があります武田義昭とあります カラオケ仲間で実家が落居の人がいるんてすがその人が言うには弘法寺の住職だった人だと言っていましたその人も苗字が中山です
今井一光 (木曜日, 25 9月 2014 22:50)
ありがとうございます。
興味深いお話です。
是非今度確認に行ってみたいと思います。
毎度弘法寺さんの前を車で通過するものの、踏ん切りがつかず
そのままにしていました。
中山義隆 (日曜日, 05 10月 2014 12:46)
落居地区の家の玄関に守り神のような張り紙があるのですがものすごく気になります
今井一光 (日曜日, 05 10月 2014 15:06)
ありがとうございます。
その貼り紙は私も見ます。須々木や地代でも見られますね。
詳細は不明ですが、モノはおそらく鐘馗(しょうき)だと思います。要は魔除けの類ですが、江戸時代から流行りものですね。
その地区で誰か顔の利く権威者等が推奨して広まったものだと思います。
お隣さんが貼るなら私も・・・というような感覚で広まっていったかと。無視して病気やけがに見舞われたりすれば周囲はそれをしなかったことを理由にするでしょう。部落の人々と同様の風習に従わないということは昔から「八分」の対象になってしまいますから。
鐘馗は中国系(道教)の縁起担ぎの一つですが、「我家には不幸の元となる病魔や事故が訪れないように」という庶民の願いの一つだと思います。
病気やけがはもっと全然違う理由があるのですがね。
中山 (水曜日, 08 10月 2014 21:24)
中山是非之助はどういった経緯で初倉湯日へ移ったのでしょうか
中山 (水曜日, 08 10月 2014 21:35)
三河八名郡西郷中山 五本松城 現豊橋市石巻町中山
今井一光 (木曜日, 09 10月 2014 08:18)
ありがとうございます。
中山一統(あるいは一部)が当初の東三河から高天神に入ったのは独立した家康と旧来の今川勢力とのせめぎあいから徐々に今川が三河勢力に押し込まれて駿府に収縮していく過程で起こったことでしょう。
その後遠州を切り取った徳川の本戦は武田と変わって行くのですが、高天神衆は家康と信長の関わりから姉川の戦いに参戦することとなり、高天神衆の戦功は信長の目に留まったというわけですね。
戦功によって家康は知行地を工面しなくてはなりませんが、その一環で初倉湯日という地がたまたまあてがわれたのではなかったのでしょうか。詳細はわかりません。
同じに功のあった高天神衆の所領は高天神城から間近である中、初倉湯日は城からは距離もあり、当時でいえば今川系の息のかかった最前線という感覚でもあります。この辺りは仔細それぞれの人間関係や立場によって変わったのかも知りません。また初倉湯日に縁故があったということも聞こえて来ません。
中山 (月曜日, 20 10月 2014 21:09)
今も初倉地区に中山姓は有りますでしょうか
今井一光 (火曜日, 21 10月 2014 12:07)
ありがとうございます。
NTTの電話帳を元に見てみると初倉地区に「中山姓」はありませんでした。
周辺でいえば掛川市内が圧倒的に多く、上西郷60上垂木22初馬19大和田17大渕17下垂木13居尻8掛川7で吉田町住吉7件、牧之原市細江25落居14御前崎市門屋11池新田7です。岡部町内谷にも21ありましたが富士市今泉に12件とあることは高天神衆が離散した第一次高天神戦の際にこの地へ訪れたと推測することもできて面白いと思います。
中山 (月曜日, 01 12月 2014 20:30)
搦手門 遊軍の意味を教えて下さい
今井一光 (月曜日, 01 12月 2014 21:07)
ありがとうございます。
搦手門は大手門(正門)か見て逆側の出入り口の事ですね。
「裏口」の感覚です。
高天神城でいえば一見大手より搦手の方が大きくて攻め辛そう、「正門」の如くですが、実際は逆側(南面)が大手道でした。そもそも平坦地があって現代の駐車場等の削平により登城しやすくなりました。
遊軍とは臨機応変、機動的に動ける軍団の隠し玉のような存在ですね。
当初は相手に姿を悟られず、意表を衝く動きを取るのがそれでしょう。
中山 (木曜日, 11 12月 2014 18:58)
菊川に生仁場と言うところがありますが血なまぐさい感じがします その付近は獅子ヶ鼻砦あとがあります
今井一光 (金曜日, 12 12月 2014 00:42)
ありがとうございます。
私は生仁場(しょうじば)橋を渡り大東図書館や高天神方面に向かいます。
相良、塩買坂方面から高天神方向へ辿るにはキーポイントですね。
高天神六砦の一つ獅子ヶ鼻砦を避けて信玄も勝頼も川を国安まで南下して渡河しています。私は「生仁」とは「医療」に関するものと思っています。
中山 (日曜日, 21 12月 2014 12:02)
けが人をかくまうものがあったのでしょうか
今井一光 (日曜日, 21 12月 2014 19:23)
ありがとうございます。
その件については私の推測で、地元の地名の発祥を知って記したものではありません。
中山 (日曜日, 18 1月 2015 04:13)
大東地区の毛森に狼煙台があったと聞きました。毛森ではなく煙ではないでしょうか。
今井一光 (日曜日, 18 1月 2015 07:59)
ありがとうございます。
大東の「毛森」という地名についてその発祥を知りませんが、地名の名残の可能性はありますね。
毛森は高天神城七砦のうち火ケ峰峠から雑賀・中村砦、あるいは獅子ケ鼻砦へ伸びる台地の中間点で、毛森砦があった場所です。
火ケ峰はかつて「火矢嶺」「火矢ケ嶺」「ヒガムネ」と呼ばれていて、当然の如く烽火台を想像します。よってどちらの砦・出城にも狼煙をあげる櫓塔の存在はあったはずですが、その手の名から派生して「毛森」となった可能性は高いですね。なお「ケムリ」は「垂直に立つ」という意もあって、毛森地区のその細長い台地形が大元となったのかも知れません。
今井一光 (日曜日, 18 1月 2015 08:19)
毛森追記
毛森の呼名は「けむり」となまって読むことから毛森山砦(文献には砦の呼称なし)が諸砦を結ぶ中間点にあって、天然の大土塁の如くの形状は立ち上がるが如く「けむり」であり、また烽火台があったことは大いに考えられることですね。
今井一光 (日曜日, 18 1月 2015 08:48)
失念していましたが、落居の弘法寺さんご住職とお話しする機会に恵まれてその件おうかがいしました。
ご住職は武田姓ですが、元は浜松から来た家計で甲斐武田とは関係ないだろうと仰っていました。
中山 (日曜日, 18 1月 2015 13:44)
ありがとうございます それではお墓の武田菱の家紋はなんでしょう
今井一光 (日曜日, 18 1月 2015 22:06)
ありがとうございます。
それは武田姓だからです。
まず
①武田姓だと四つ割菱(武田菱)というのが定番です。
いつかブログでも記したと思いますが、
②武田武士団としての諸流出自は河内源氏で大元は同一です。
③弘法寺ご住職が甲州出身を否定されたことが甲斐源氏出自を否定したことにはなりません。
どういうレベルでの否定であったかまで推測できないからです。そしてそれ以上深く聞き入る事が憚られたという理由もありますが、姓というものが絶対的に名のられるようになったのは明治も日露戦争の頃です。
姓と家紋の関係も結構「イイ加減」で、これは古くから新家が本家と家紋を変えることも、近所の他家が同じ家紋を付けるなどということは普通にありました。
よってその武田さんの家紋が武田菱であったとして甲斐源氏の御先祖様があるのかまったく関係ないのかは他者から見てわからないものです。
要は武田を名のるのだから機械的に「武田菱家紋を」ということもあるわけです。
中山 (水曜日, 22 4月 2015 17:08)
高天神の戦いで兵糧を運ぶために周辺にいくつも人工の水路を造ったと聞いたのですが今でも残っていますでしょうか亀惣川とか
今井一光 (水曜日, 22 4月 2015 19:27)
ありがとうございます。
高天神城以外の城でも兵糧を入れるに水運は大いに活用されていたと思います。
武田の襲来が2度とも塩買坂から直接高天神に向かわずに、菊川の下流の国安へ廻りこんでいることからもまずは、兵糧を抑えるという意味が多分に考えられます。
当時の海岸線は現在より内陸に入り込んでいて、たとえば中(ナカ)の中村山砦(雑賀砦)の眼前まで迫っていたといいます。当然にこの砦は高天神城の兵糧基地となっていたはずで、砦の東側に亀惣川、そのさらに東に菊川の本流が流れていますのでそれらの河川から派生させた水路があったはずです。
また、砦のすぐ西側には下小笠川が流れていてその辺りの地名が「海戸」ですね。
まさに高天神への兵糧の役割はこの川が担っていたと思います。
現在では河川の洪水対策の改変が進み、水路らしき土地は削平されて、残されていないようですが。
しかし黒田屋敷には移動用の舟が設置されている(現在でも見る事ができます)ことから周辺には水路があったことが推測できます。またこの屋敷の周囲の堀は水路り延長かと思います。
ブログでも記しましたが狭い水路、河川では綱に結ばれた舟、筏を堤を歩く人力によって曳かせたと思います。
中山 (月曜日, 11 1月 2016 12:52)
先日中村砦跡に行って来ました。当時ここが海だったなんてとあら ためて地形の変わりようにおどろかされました。ここが物資の中継地点だったんですね。今の地形から考えるとかなり内陸に海が入り込んでいることを思うとどうしても高天神城領内をとうざろうえないと言うこと ですね。
今井一光 (月曜日, 11 1月 2016 20:09)
ありがとうございます。
中村砦もそうですが、横須賀城もその西側まで
入江が喰い込んでいたといいます。姥が懐(うばがふところ)と言われて
遠州灘が荒れた際の舟の退避場となっていましたね。
遠州灘の隆起の歴史はそう時間を経ないタイミングだと思います。
中山 (金曜日, 05 2月 2016 01:04)
高天神城は周囲が断崖で難攻不落と言われていましたが一ヶ所だけ西側の一部だけなだらかな斜面になったところがありそこから敵兵が侵入してきたと以前発掘説明会の時に聞きましたその上には侵入を防ぐための堂の尾曲輪当時発掘中がありました 3月27日に高天神例祭があるので行ってきます城に詳しい先生方も見えられると思いますので興味深い話が聞けると思います
中山 (金曜日, 05 2月 2016 01:22)
御前崎市池新田の丸尾記念館と言うところで館長をなさっている方が歴史にいろいろ興味のある方ですので親身にきいてくれます この間も井伊直正の命を救った新野佐馬之助についての講演会に行って来ました その話もしに行きたいと思います
今井一光 (金曜日, 05 2月 2016 08:41)
ありがとうございます。
今年の高天神祭りはお天気次第では行く予定です。
鉄砲隊の実演を楽しみにしています。一時は無くなってしまいましたからね。
再開して2回目でしたか・・・?
西ノ丸堂ノ尾は高天神では一番脆弱な場所ですね。
2度の落城ともこちらが端緒となっています。
また、丸尾記念館の館長さんは存じ上げています。
わかりやすく親身になって解説くださいますね。
もしかすると高天神城ですれ違うかもしれませんね。
中山 (土曜日, 06 2月 2016 09:18)
武田徳川最後の戦い前夜幸若舞が舞われたとあります敵味方関係なくその時は見たとのことですたとえ戦さとはいえおたがい相手の心情を思いやる昔の武士の心の奥深さを感じます
今井一光 (土曜日, 06 2月 2016 10:18)
ありがとうございます。
その話はほんのりさせる話ですね。
ここから、映画「のぼうの城」の野村萬斎の舞の演出をイメージしたかと思います。
中山 (金曜日, 29 4月 2016 09:13)
6月15日に井伊直虎とその時代の菊川周辺について小和田哲男先生の講演会が菊川アエルであるので行ってきます。いくつか質問したいことがあればアンケート用紙かメールへ書き込んでもいいとのことでした
中山 (金曜日, 29 4月 2016 09:22)
小和田先生は馬場美濃守信春の子孫だとか
今井一光 (金曜日, 29 4月 2016 14:55)
ありがとうございます。
馬場信春のお話は私もお聞きしたことがあります。
また6月15日の件は、時間的に都合よく申し込みしてみようと思います。
中山 (日曜日, 03 7月 2016 14:50)
先日小和田哲男先生の講演会にアエルに行ってきました。
今井一光 (日曜日, 03 7月 2016 20:59)
ありがとうございます。
私も同座していました。
雨交じりでしたが会場は満員でしたね。
中山 (金曜日, 22 7月 2016 10:07)
高天神の戦いで武田方についていた榑林氏はもともと甲斐からきた名だたる武将の家来だったのでしょうか
河東村出身者 (火曜日, 06 12月 2016 22:36)
榑林氏/紅林氏は永禄3年の棚草の蔵人に名前が見え、また松下之綱の家系図にも名前が見えるので、武田軍侵攻以前と思いますが、曽根氏も同じく甲斐とのつながりが見えるところが興味深いです。
今井一光 (火曜日, 06 12月 2016 23:54)
ありがとうございます。
榑林氏/紅林氏もこの地区に多い姓ですね。
古くから遠州に関わっていた一族の流れとは思いますが確証を得ません。
今川家臣団では見えてきませんが「陪臣の陪臣」レベルで
組み込まれていたのかも知れません。
遠州は甲州同行方の離散定住の地(高天神崩れ)でもありますので
甲斐出自説はこの地区「不詳の定番」ともなっています。
また中山さんの♯39のコメントについて先ほど気づきました。
申し訳ございませんでした。
中山 (土曜日, 25 3月 2017 09:37)
一度大澤寺へ伺ってもよろしいでしょうか。高天神の話を聞けたらなと思います。
今井一光 (土曜日, 25 3月 2017 11:26)
いつもありがとうございます。
大歓迎です。
直接メールにてどうぞ。期日等調整させてください。
中山 (日曜日, 26 3月 2017 14:39)
来週の土曜日いいでしょうか
今井一光 (日曜日, 26 3月 2017 19:48)
ありがとうございます。
4月1日土曜日は「春の法要」で繁忙にしていると思います。
9時から11時までは境内の寺楽市でぶらぶらしていますから
なんとなくの感じでお越しいただければと思います。
中山 (土曜日, 01 7月 2017 11:51)
家康の陣場跡がそこかしこに多くあります籠城戦より野戦が得意だったんでしょうか。
今井 一光 (土曜日, 01 7月 2017 13:38)
ありがとうございます。
遠州には家康の足跡がたくさんあって「陣場」とよばれる跡も同様ですね。
殆ど伝承かも・・・と思われる地も散見されますがそれだけ家康は遠州各地を
転戦したということです。
ただしその陣場址がたくさんあることから「籠城戦 野戦」の得意不得意は
決められないかと思います。
関ケ原も大坂の陣も家康は調略によって勝利しているといって過言ではないかと
思います(ある意味「勝」が見えたら動く)。
戦の基本は戦わずに調略して味方に取り込むことが一義ですから、「様子をみながら
臨機に」というところでしょうか(家康は遠州では城を囲む方が多かったですね)。
そして何よりも味方の損害が少ない戦方を選択します。
全勢力正面同士での「決戦」を望む戦い方も選択肢にはありますが、まずは
考慮しません。
籠城方といえば勢力差が劣る方と決まっていますがそれですら力攻めには
至らなかったかと。
散発的な戦闘を各所で発生させ優劣を判明させつつ時間をとって兵糧を断ち
精神的にも籠城方を追いつめてのんびりと相手の様子を窺いながら、条件提示をしながら
落城を待つわけです。
資金力がモノをいいますがそれこそ「戦の王道」です。
「王道」は調略して新しく味方になった兵力を先方に向かわせて戦わせますので
本体兵力への痛みはないわけで・・・。
相手からすれば味方に攻められている感覚にもなります。
相手の駒を取ったら自分の駒として相手を攻める「将棋」と同じですね。
中山 (月曜日, 03 7月 2017 10:56)
孫子の兵法ですね。戦わすして勝つは最善の策なり。合戦はあくまで最後の手段ですね。
今井 一光 (月曜日, 03 7月 2017 12:07)
ありがとうございます。
転じて、「戦わないが勝ち」にしたいものです。
嫌な言葉ですが、「金持ち喧嘩せず」。
ここでの「リッチ」は「心」の方で解釈します。
中山 (月曜日, 03 7月 2017 12:54)
大河ドラマ風林火山で山本勘助も言っていました。