井伊直政にはついていけない 近藤秀用

永禄十一年の家康の遠州切り取りの第一歩、刑部城の攻略の先鋒は旧今川義元配下だった野田城の菅沼新八郎定盈(さだみつ)に今川方武将を調略させたグループです。

 

戦国期に相手方武将を調略して自軍に引き入れた場合、まずその次の戦いの先鋒に投入されることになります。

将に将棋の駒、相手の手中に収まれば、即ち反旗を上げて攻め込まれます。

 

調略した側としては帰順の誓約がされたからと言って俄かに信ずるわけにはいきませんので、まず先鋒をやらせて戦働きの様子を窺うことは理にかなっているでしょうし、自軍の真水の勢力の+αの新参者ですのでその者達に働かせた戦が敗色が濃厚となったとしても疲弊することはありません。

 

これまでの敵友軍同士で戦わせるのですから効果的です。

相手は直近まで友軍と思っていた者に戦いを挑まれて戦意も喪失しがちになるでしょうし調略された者は一旦裏切りの汚名を被ったからには開き直って戦功を挙げなくてはこれから生き残っていくことはできません。

 

このように調略による本戦前の裏工作がいかにウェイトが高かったか、これは古今東西どちらの戦いでも聞こえてくる話でした。

 

刑部城攻めに際して今川氏真から離反させて徳川方に流れたのは「井伊谷三人衆」と呼ばれる三家で菅沼定盈の同族の菅沼忠久・鈴木重時・近藤康用でした。

 

近藤康用の子の秀用が当時から第一線で動いていましたが彼は元和五年(1619)に井伊谷藩主となっています。

こちらは井伊谷(いいのや)ですので彦根の井伊の大元ですね。

そもそも井伊家に編入されたので家康と当家の関係は陪臣(家臣の家臣、家来の家来)です。

 

関ヶ原の福島隊を抑えての井伊直政の拘りが表すように、徳川四天王の一人井伊直政(→ブログ)は勇壮で名を馳せた武将で近藤親子としてはどうも反りが合わず、居心地が悪かったようです。

近藤秀用は小田原の役で家康だけでなく秀吉にも褒められるほどの活躍をし、井伊家を離れて直接徳川家の家臣となることを模索しますが、直政には相当邪魔されたようです。

 

関ヶ原で奮戦した直政がその傷が元で死去すると、その願いが成就し、家康の招きに応じることができました。

上野5000石→大坂の陣の活躍+相模10000で15000石でついに大名に。そして+2000石で井伊谷17000石となったわけです。

 

ところが面白いのは近藤秀用の考え方です。

男の子に恵まれ季用、用可、用義ら五家に所領を分割したため藩も大名としての近藤家は1代で終わってしまいました。

五近藤家といわれますが、気賀には用可に三千四百石、

その気賀近藤家12代が明治まで続き気賀の関を治めていました。

 

気賀近藤家には六代目の用随(もちゆき)という人が出て(「活民院殿」と墓碑)います。

宝永地震で田が塩水と混じり米作が全滅すると、塩害を受けた水田に豊後国より畳表の原料となる七島藺(しちとうい)を取寄せて植えさせ、代替産業を興しました。

領地経営に力量を発揮して領民たちに慕われる領主として当地では語られています。

 

気賀の湖の見える山腹にある気賀近藤家の墓(場所はここ)

①左から用吉・用永・用随

②左から用清・用由・用治

③左から用武・用和・用恒

     みなさん「用」(もち)の字が。