関ヶ原の「東首塚」に対して、「西首塚」と呼ばれる合葬墓があります(場所はここ)。元の名は「胴塚」とありますのでこちらの方に胴体の方と雑兵の遺体を埋葬したのでしょうか。
かわいい五輪塔が祠の裏の大木の周囲に無造作に並ぶというよりか転がっています。「東首塚」よりずっと墓地風で狭い敷地ながらもイイ感じを醸し出しています。
天下分け目の決戦と言われる関ヶ原ですが戦死者の数は色々な説に分かれ下は1000~上は8000人とほぼ「詳細不明」で時代が時代だけに(人の命が虫ケラと同じ)ほとんど推定数。
長島の一向一揆では20000人が信長に殺されたといわれますので案外死者数は少ないイメージです。
現在は住宅地の一画ですがかつて明治の頃この祠から150mほど北側の東海道線敷設工事の時には遺骨がかなり出たといいますので付近一帯広範囲に埋葬されていたと思います。
定説である上限8000人の死者の埋葬でしたらやはり余程の広い土地が必要です。付近を掘ればまだまだ出てくるだろうと思えてしまいます。
埋葬をした地元の方もなかなか大変ですが一応は、ある程度の時間が経ったのちに祠や墓標を建てて管理する役を命じられた人がいます。
東首塚の画像で「領主の竹中家」とありましたが、竹中重門のことです。この人は同時に「西首塚」の整備にも関わっていますが、秀吉の当初からの参謀、軍師の竹中半兵衛(重治)の嫡男です。
当然に秀吉恩顧で関ヶ原直前まで西軍に片足を突っ込んでいましたが、井伊直政の説得で東軍に寝返り。小西行長を捕縛して家康を喜ばせました。
以下家康の感状は東首塚前の資料館に展示されています。
「小西摂津守召捕給候、被入精段祝著之至候、猶期後音候、恐々謹言 九月十九日 家康(花押) 竹中丹後守殿」
伊吹山中の逃避行、小西行長は落武者狩りの手に捕縛され竹中重門に引き渡されそれを家康に引き立てたと言いますので彼は「うまいことやった」という感もありますね。
家康感状の印判の印文は「忠恕(ちゅうしょ)」。
「恕」は「おもいやり・ゆるす」の意で家康の印によく使われています。しかし相当くずしてある印の字体ですので私にはまったくそう読めませんが、家康自身の歓びが伝わってきます。
関ヶ原は竹中家所領で「供養料」等、墓地整備費として家康から下賜されています。
敷地内の案内板には
「関ヶ原合戦死者数千人首級を葬った塚である。
この上に江戸時代から十一面千手観世音及び馬頭観世音の堂が建てられ、付近の民衆の手によって供養がされている。
関ヶ原教育委員会」
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