駿府今川館が賎機山城の真下の根古屋なのか、家康が手掛けた駿府城の下に埋まっているのか少しばかり悩ましいところですが静岡駅の南側に、遠州の戦国史上特筆すべき事案にかかわる二人が交わったであろう城があります。
この城の名も「八幡山城」(やわたやま 場所はここ)。
付近には「八幡」という地名も残り、八幡神社もセットです。画像は昨年秋のもの。富士山は見えませんでした。久能山方向から南方に目を利かすには絶好の場所です。
京都からやってきた伊勢宗瑞が関東から派遣された太田道灌とサシで今川家継承問題について話し合った場所だと推測されています。
元々は今川範政が築いた、北側背後にある今川館防衛用の砦でした。
小鹿範満と龍王丸の争いを嗅ぎ付けた堀越公方の足利政知が介入して、小鹿範満の母方の祖父の上杉政憲に兵を率いさせ、あるいは関東管領の上杉氏も扇谷上杉家の太田道灌を駿府に派遣するほど駿府は不安定化していました。
上杉政憲、太田道灌ともに小鹿範満を支持していましたが、その際道灌が布陣したのが駿府の鼻っ先にあるこの八幡山城だったと言われています。
伊勢宗瑞は義忠が塩買坂で討たれてから甥っ子の龍王丸(氏親)の後ろ盾となって動きます。
それらの勢力の台頭を嫌っていた幕府方の意向と力を背景に折衝し,とりあえずは「龍王丸の成人」という期間を区切っての「範満の家督代行」という話を取りまとめました。
伊勢宗瑞はその後、龍王丸が成人しても譲位しない範満を駿府に攻めて滅ぼしています。
伊勢宗瑞(北条早雲)はこの前後にこの城を整備し自らも西の山越え、焼津の石脇城からこちらに入っています。
今川氏親が晴れて家督相続し駿河が安定化後、ご褒美で手にしたのが興国寺城。
そこを足場に韮山城、さらに小田原城と次々に果てしない野望を実現していきました。
小田原の地に八幡山の名を冠したのはそもそもの大出世のきっかけとなった駿河八幡山の快挙が頭にあったのでしょうか、それとも「八幡」はただの武士としての表現で偶然なのでしょうか(ただし小田原のその地が大森時代からの名称であったか宗瑞が銘々したかどうかは未確認です) 。
この平地にポツンとある山は古墳(18基)の山でしたがその山を城郭化させたものです。
昨年秋に登城した時の画像ですが富士山は見られなかったものの南方部、久能山から持舟城の海の方向、東は阿部城まで一望にできる場所です。
八幡神社の駐車場よりはと思い近くのDIYショップのジャンボエンチョーにて適当な買い物をしてそちらの駐車場を利用させていただきました。
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