平将門・源義家あたりから「八幡大菩薩」を戦勝の神として武家の守護神として崇敬したことから始まって、倭寇が八幡宮の幟(のぼり)を船首に立てて海賊行為を行っていたことから八幡船(ばはんせん)と呼ばれたり、その八幡さんは戦闘行為を鼓舞する時には欠かせない「神」ですが伊勢宗瑞(北条早雲)の「八幡」へのこだわりは並々ならぬものがあったのかと思います。
尾張末森城の城址に建つ「城山八幡宮」もそうでしたが、日本全国かつてあった城の面影を残す名称は多々残っています。
私は中学2年まで小田原で生活しましたが、中学校は「城山中学」(場所はここ)。
現在「城山」という住居表示のある地は小田原城の西側の段丘で箱根外輪山からなだらかに降る丘陵地帯です。
住居は「南町」で、別称「早川口」でしたから通学と大学時代、町田ハンズ時代は学校や駅までの途上には嫌がおうにも小田原城が眼に入いってくるような場所でした。
その城山はかつて北条時代は小田原城の外郭、「八幡山」と呼ばれていたようです。
最近になって市の土地買収によって保存整備が進んだり発掘調査等がなされている様ですが、小田原駅周辺で既存建造物もあったり土地価格もそう安くはないそうで周辺開発計画がもちあがった時に「ついでに」調査しているような場所もあるようです。
駅裏の旧国鉄アパート跡地に医療福祉大学が建つ時も事前に大規模な発掘調査が行われていて北条流の堀の造作で堀障子が設けられた「障子堀」の跡も見つかっているようです。
この「障子」とは単なる「衝立」の意味で、堀の中を堀沿いに簡単に移動できないように障壁を設けるものです。
小田原城西側の崖下にはJRと箱根登山線が走っていますが小・中学校時代はその城の真下の崖に掘られた防空壕跡らしき洞穴で遊びました。
近所の駄菓子屋でローソクと「食糧」を買って仲間とその中で過ごしたことを思い出します。中に人が居るのに入口から爆竹を投げたり中でたき火をしているところを学校に通報され呼び出されてから酷く怒られましたね。
その線路を越した西側の丘陵地帯が「城山」といいますが、そもそも初期の小田原城の主郭はそちらにあったようです。
そういう点からこちらの今、城の無い山を城山と呼ぶことに合点がいきます。主郭のあった山地を「八幡山」と称したのでしょうか。
小田原城を線路を境に真向かいにある「城山」側最東端の斜面は、小田原市が民間から買収した公園地、「八幡山古郭東曲輪」があります。
その地には中学校時代、肝試しと称して忍び込んだ病院の廃屋がありました。住居も何軒かありました。
病院跡の建物は地下室があってあの時の恐怖たるもの私の記憶の中それを超えるものはありませんでしたね。
一人が悲鳴をあげて逃げるとみんな一斉に逃げ出しました。
今考えるとバカバカしいのですがあの頃は何をやるにしろ無茶苦茶楽しかったですね。
そういうことから須々木の海っ淵の廃民宿に私の息子が遊びに入っているという通報を受けて注意はしたものの本気で怒れない苦笑いの自分がありました。
画像は東曲輪からの図。①に相模湾と三浦半島。⑥が石垣山方面。⑦⑧は東堀手前の旧野球場、御用米曲輪の発掘現場です。
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