「自然の要害」韮山城の根古屋、「御座敷」と呼ばれた地が韮山高校あたりです。
昨日の甲子園出場の碑のスグ上の山が韮山城主郭址。
伊豆半島の付け根中央部に位置して(場所はここ)北側に水堀を配した主郭部、南方の険しい山系に連郭式に砦・曲輪を設けて天正十八年(1590)の小田原攻め前哨戦では十倍以上の秀吉軍包囲網にも難攻不落振りを誇りました。
城が要害化したのは伊勢盛時(北条早雲)が1491年に興国寺城からこの地に入って自らの本城としてからです。
後に「戦国の梟雄」と言わしめた堀越公方足利茶々丸急襲事件ですね。
御乱心の茶々丸様と雖も足利幕府将軍一統ですから、この件はさぞ世間を驚かせたことでしょう。
伊勢盛時は織田信秀が那古屋城の今川氏豊を策によって城を乗っ取ったのと同様、奇策により大森氏を小田原から放逐しますが、小田原には2代氏政を入れて自らはこの韮山城を生涯の城としています。
小田原が北条氏の関東統一の足掛かりとして主城となったあとも西からの防衛上も、また北条氏を名乗るうえでも重要な拠点(この地が鎌倉平氏系北条発祥の地)として機能しつづけ、永禄期には後北条最盛期である3代北条氏康の四男の氏規が韮山城主として入りました。
北条氏規は秀吉の小田原征伐の際に徹底抗戦、籠城を選択した兄の4代氏政や氏照とは違い、5代氏直の舅、家康の懐柔もあって秀吉には幾度も面談するなど豊臣臣下となる道を主導しました。
しかし兄たちのよる強固な籠城姿勢に屈して韮山城に豊臣秀次軍を迎え討ちました。韮山城は永禄十二年の武田軍の侵攻も跳ね返していましたが、この豊臣勢4万以上ともいわれる攻城戦に持ちこたえました。
氏規が今川駿府時代から懇意にしていた家康の説得に応じて開城したといいますので、実質韮山城落城は無かったのでした。
比高はあまり無いですが堅牢な背後の砦群に囲まれ湿地帯に浮かぶ城で短期戦では相手は手をこまねいたでしょうね。
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