「人生五十年」などというと幸若舞の「敦盛」を連想しますが、画像は息子が持ってきた何かの付録で2013年~2062年までの50年分のカレンダーです。
奇をてらう感ありますが「キミの人生の50年後」という趣旨だと思います。「明るい未来のために」という副題もつきそうですが、よくよく考えてみれば私にあと50年の人生があるはずも無くこの数字の羅列の中には絶対的に私自身の「後生の一大事」が含まれていることは確実ですし、このただのペラ紙の「各数値」にはたくさんの悲しい報せ(命日)があると思うと、未来への希望よりも色々な苦しみの数々の方もバッチリ待ち受けているのだということを警告しているようにも感じます。
この1枚の軽いペラ紙、実は相当重たい内容を含んでいました。
楽観的バイアスを廃除して極論を言えば、寺が残っているのか、日本という国があるのか、人類そのものがあるのか、地球そのものがあるのか、等々色々とナンセンスであると他から思われそうな事柄も思い浮かびます。
根を張る努力をしつつ淡々と日々「風に吹かれて」、つかみ切れない人生だとしても全うできればと思うばかりです。
ボブディランの「風に吹かれて」の歌詞和訳を貼り付けます。
どれほどの道を歩かねばならないのか
男と呼ばれるために
どれほど鳩は飛び続けねばならないのか
砂の上で安らげるために
どれほどの弾がうたれねばならないのか
殺戮をやめさせるために
その答えは 風に吹かれて
誰にもつかめない
どれほど悠久の世紀が流れるのか
山が海となるには
どれほど人は生きねばならないのか
ほんとに自由になれるために
どれほど首をかしげねばならないのか
何も見ていないというために
その答えは 風に吹かれて
誰にもつかめない
どれほど人は見上げねばならないのか
ほんとうの空を見るために
どれほど多くの耳を持たねばならないのか
他人の叫びを聞くために
どれほど多くの人が死なねばならないのか
死が無益だと知るために
その答えは 風に吹かれて
誰にもつかめない
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小山昭治 (金曜日, 26 7月 2013 08:40)
いい詩ですね。改めてそう思います。
人生を流されながらただ淡々と生きていく。
時には逆らいながらも流されていく。
先は見えないがそれなりに生きていく。
中日新聞の「親鸞」を読むたびに
「親鸞」でよかったと思います。
今井一光 (金曜日, 26 7月 2013 20:33)
ありがとうございました。
「親鸞聖人」以外、私をすくい上げる
教えは無いですね。
私も同様真宗門徒の寺というご縁にまみえて感謝します。
もっとも私が他宗でしたら修行から逃げてとっくに沖縄辺りで別の「頭の空の仕方」を試行していると思います。