那古野城→廃城→名古屋城 織田信秀の策 

尾張名古屋の金の鯱のお城も大坂城も徳川時代に入ってからのお城です。折角の名古屋の顔ともいえるお城でしたが昭和20年の名古屋大空襲の焼夷弾により殆どが焼失してしまって今の建物は戦後の御品ですね。

 

大坂城は元あった豊臣のお城の上に盛土して徳川の手で建築されていますので豊臣時代を「懐かしむ」気持ち(敗者の美学)はあってもちょっとばかり雰囲気が違いました。

 

名古屋城は家康の天下普請(西国大名主体)で建立されました。

建築場所は現在の名古屋駅と名古屋城の中間地点(場所はここ)に「那古野(なごの)」という地名が今も残っていますが旧那古野城の真上となります。

その那古野城の遺構も上に乗っかっている名古屋城のためにまったく残っていません。話は飛びますが、そういうところから考えると駿府の今川館の跡は駿府城の下と考えるのがスムースですね。しかし駿府城と賎機山との位置関係が若干距離がありすぎて今一つ理解に苦しむところがありますが・・・。

 

さて、この城の元は今川義元の父、伊勢盛時(北条早雲)の甥っ子でもある今川氏親による築城です。

今川家絶頂期、勢力範囲は尾張までありました。

今川氏親の末子で嫡男義元の弟といわれる今川氏豊を当地の国人那古野氏に養子縁組させてこの城を護らせましたが織田信秀(大須の墓)の謀略で城を奪われました。

後の義元の上洛途上といわれる桶狭間の死は実は尾張奪還の大義も込められていたのでしょうね。

 

 織田信秀の策は「ズルさ満点の下剋上」だったようです。

うまいこと氏豊の趣味(連歌)にあわせて氏豊が那古野城内で開催される連歌会に頻繁に通いつめ、ゴマを摺って?城内に泊まり込むまでに信用させたのち、仮病を使って寝込んで「家臣に遺言したいので」と同情させ手勢を入城させてから氏豊を急襲して放逐しました。

まるでギリシャ神話、派手な造り物は無いですが功名なとり入り方、演出の方法は「トロイの木馬」を連想します。

何でもアリの「卑怯道」がうまく決まると英雄ですね。

ある意味今も同じ、勝てば官軍。

 

 信長はここ那古野城で生まれたと言われますが清州に城を建ててこの地を捨てました。

その後こちらに再び目を付けたのが家康でした。

 

以下説明版より

「名古屋城大天守と小天守を連絡する橋台は石垣を築き左右両側に土塀を設けて通路の防備としさらに外部の面する西側には軒桁に三十㎝余の槍の穂先を並べて忍返として外的に備えた」

 

⑧~⑩東南辰巳隅櫓と焼夷弾炎上時の様子そして那古野の石碑。