大須については広すぎてまだまだよく把握し切れていませんが、昨日ブログの画像の赤い看板「甘栗今井」のアーケード入口が大須の東西を走る「万松寺通り」です。アーケードの中に寺があるのは京都の河原町を連想します。
こちらの万松寺(萬松寺)、実は大須の開発主体だったのでした。
織田家の菩提寺として、また徳川家の庇護を受けたお寺として広大な寺領が安堵されて明治を迎えています。
位置的には名古屋駅、名古屋城の3点を結ぶ1辺2㎞程度の正三角形のポイントとなる中心地です(場所はここ)。
名古屋城の前身、那古野城の南側に天文九年(1540)に織田信秀の手によって造られたお寺です。当初は七堂伽藍と55000坪の大寺院だったそうです。今の大洲には徳川時代に名古屋城縄張りにかかるという理由から移動しています。
若き虚け者、信長を描いた映画等では必ず描かれるシーン、父信秀の「葬儀の際の焼香」でむんずと掴んだお香を位牌に向かって投げつける場面はこの「万松寺」でのことですね。
また、家康は6歳の時、天文十六年(1547)に父の岡崎城主松平広忠の対織田信秀対策として駿府の今川義元へ我が子を人質として送ろうとしますが、逆に駿府移動中、捕縛されて織田の人質として売り飛ばされ、9歳まで当地で過ごしたといわれます。
家康が桶狭間直後に織田方に即座に身を翻したのはその幼少期の織田方での生活が青年期へと成長した駿府での生活に比べてよりいいイメージを残していたのかも知れませんね。
先般の大須の握手会開催の場所は、このお寺の「境内」でした。その門前スペースを提供していたのでしょうがそちらと例のたくさんあるケバブ屋の一つの店舗との間にこじんまりとしたお寺らしき佇まいの建造物があります。
繁華街の雑踏の中で、この通りからの景色がここが寺であることをようやく知りうるところになります。
ケバブ屋の隣のそれらしき建物に下り階段がありますのでそこを潜ればスグそれとわかる織田信秀の宝篋印塔が確認できます。
狭い墓域ですが瓦積塀らしき風体がいかにもイイ感じです。
この雑踏のすぐ10m先で握手会に参加する若者たちはこのお墓の存在について御存知なのでしょうか。
まぁどうでもいいことですが・・・。
日本でも有数の「賑やかで喧騒」とした場所にある墓地だと思います。
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