山口の捕鯨の町に生れ26歳で亡くなった詩人「金子みすゞ」の作品について最近になって耳にする機会が増えてきました。
彼女の名を知ったのもこの10年くらい前からでしょうか。
テレビコマーシャル等でも時折聞こえてきました。
彼女の作品は幼少期の教育素材として使用されることがあり、ひょっとすると彼女の晩年期くらいの「幼稚園の先生」あたりは、ほとんどみんな知っているのか・・・したがって勿論小さな子供たちも・・・と思います。
意外に認知度が低いのは私と同世代以上の方々か・・・。
オヤジになればみんな忘れてしまう(知らない)のは、彼女の詩の根幹がやはり幼少期に特に身に着けさせられる、「ありがとう」と「ごめんなさい」の人間が生きる上での二大責任というか「素直な心の発信」みたいなところにあるということも同じですね。
あと、当然ながら真宗寺院ではその彼女の姿勢や立場から法話等に取り入れられる機会があり、本山からの通信紙等、耳目にすることが多くなっています。
真宗門徒の家に生まれ「仏の子」として成長した彼女の詩は自然のまま、あるがままの感情の吐露なのですが、不思議に真宗の基本的な考え方を踏襲、合致し、私ごとき「心中、其の道」暗き坊主にとって時として横っ面をハタかれるような一篇に出遭うことがあります。
決して「幸せ」であるとは言えそうもない彼女の短い人生の中から湧き出た、簡単で優しい表現による、しかも真実の詩(うた)は、しばし私たちの琴線にふれることになります。
「経済活動と1番」ばかり狙って自己を失いがちになっている私たち。筋道の間違いを少しでも修正し今一度「足元」を見つめなおす意味で彼女の作品を味わってみたらいかがでしょうか。
「本当の所・・」ですね。目標は・・・
「盂蘭盆」の機会に真宗門徒の御内佛について記された1篇がありますのでここに記させていただきます。
お仏壇
お背戸でもいだ橙も ※お背戸 裏山
町のみやげの花菓子も
佛さまのをあげなけりや
私たちにはとれないの。
だけど、やさしい佛さま
ぢきにみんなに下さるの。
だから私はていねいに
両手かさねていただくの。
うちにやお庭はないけれど
お仏壇にはいつだつて
きれいな花が咲いてるの。
それでうち中あかるいの。
そしてやさしい佛さま
それも私にくださるの。
だけどこぼれた花びらを
踏んだりしてはいけないの。
朝と晩とにおばあさま
いつもお燈明(あかり)あげるのよ。
なかはすつかり黄金(きん)だから
御殿のやうに、かがやくの。
朝と晩とに忘れずに
私もお禮をあげるのよ。
そしてそのとき思ふのよ
いちんち忘れてゐたことを。
忘れてゐても、佛さま
いつもみてゐてくださるの。
だから、私はさういふの
ありがと、ありがと、佛さま。
黄金の御殿のやうだけど
これは、ちひさな御門なの。
いつも私がいい子なら
いつか通つてゆけるのよ。
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小山昭治 (金曜日, 12 7月 2013 09:01)
ありがとうございます。
心を洗われるようです。
でも現実は、生活していくには
そんな気持ちばかりではいられません。
ひょんなことから精神障害の人たちの作業所の
移転、建設に巻き込まれ手伝いをするようになりそうで
気が重い所です。
そんな人たちは気持ちもきれいで純粋で
よくやってます。
だから 手伝いをしないとは言いきれません。
バカな人間です。(ほどほどに付き合いますけど)
詩を読んで常々不思議に思っていた
なぜ 仏壇は金ぴかなんだろう?
が わかったような気がします。
いつか通るとき道筋を照らしてくれるのだと思いました。
今井一光 (金曜日, 12 7月 2013 22:12)
ありがとうございます。
如来様は私たちが不完全で何もできないことも、暗い心もすべてお見通しとのこと。そしてまた私たちに「完全」なんて求めていませんね。
だからこそ如来は手を差し伸べてくれるのでしょう。悪人正機ですから。
しかし胡坐をかいていては(本願ぼこり)如来さんに失礼、そんな自身を反省して(何とか自分を誤魔化して)一所懸命になって一歩前に出てみるという姿勢が大事なことですね。
助け合いの精神はよりすばらしいことと思います。
「道筋を照らす」いい言葉です。本当に。暗かったら危なっかしくて動けませんからね。