「今浜」→「長浜」一字拝領

中部の山城に慣れ親しんだ「戦国田舎者」の私が度肝を抜かされた近江小谷城の部材はこの城攻め(天正元年1573)で功があった秀吉が琵琶湖に面した「今浜」に新しく自分の城を築城するために持ち出しました。

 

元は今浜氏という佐々木道誉の家臣がその出城の守将として

此の地にあったそうです。

 

大河ドラマでは浅井長政が三姉妹とお市を逃がして腹を切ったあと小谷城は炎に包まれていましたね。

これはビジュアル的効果の演出であって実際には落城の際に火はかけられなかったというのが通説です。

時代考証の小和田先生が「城に火をつけるのは史実に反しているのでは」と一応は指摘したそうですが、「その感覚というものの強調」という局側の説明に苦笑したそうですね。

 

要は小谷城主郭の発掘調査で炭素層が出てこなかったというものがその根拠です。

焼失を免れていればその材のリサイクルは簡単でした。

むしろ当時「リサイクル」は最も効率的な建築手法ですね。

 

秀吉は浅井家の旧領の殆どと小谷の城を使用する許しを信長から得ますが、やはり秀吉の先見の明でしょう、主君信長の市場原理主義、楽市楽座を元とする、城下流通繁栄路線とは相反すると、この城を早々に放棄して海路陸路を集約できる今浜という地を選択したのです。

 

折角、殿、信長に頂戴した天下の名城をいとも簡単に捨て去ってしまうことはどうみても周囲もまた信長としても「気イわるい」ところだったかも知れません。

そこで名目、信長に承った大切な小谷のお城を琵琶湖畔に移転させ、尚且つここ今浜という地名を信長の「長」という一字を拝領して「長浜」と改名、その城を長浜城(信長の江浜のお城)という皆が納得できる大義をここにおいてもちらつかせ話をうまくまとめてしまいました(場所はここ)。

 

城のベースとなる石垣は湖面から立ち上がり、そのまま舟で城内に入れる仕組みになってしました。

時代の変遷で関ヶ原以降、この城の部材は石田三成の佐和山城の部材とともに彦根城の建設に使われたといいます。

 

 私は全3回この城の周辺をうろつきましたが、こちらは数年前の冬の画像です。直近では「奥の墓道」の同行でしたが、「コンクリートの資料館はパース!」と彼が立ち寄りもしなかったお城でした。行けば行ったで面白いのに・・・

 

 雪をいただいた伊吹山はさすがに美しいですね。この画像は天守展望台からの図です。

 

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 27 6月 2013 08:36)

    長浜の「長」は信長の字からとったとは知りませんでした。
    城の部材のリサイクルも素晴らしいものですね。
    大澤寺もしかり。(余剰材でしたね)
    昔の方がリサイクルしていたのでしょう。
    それに引き替え、現代は嘆かわしい。
    いつからこんなになったのか。
    一昔前は、人糞でさえリサイクルしていたのに。
    人間が発達しすぎたのか、欲が深いのか。
    それでも右肩上がりをしなければ生きていけない世の中。
    どこか違っていると思いますが
    流されなければ取り残される。
    嫌な世の中です。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 27 6月 2013 21:29)

    ありがとうございます。
    地方の農家が街に出て屎尿等を買い取りに出た時代があったなど
    今の人は誰も信じないでしょうね。
    最近の農地には肥溜すらも無くなりました。
    しかしもうすべてにおいてそんな時代には戻れませんね。
    街にはおカネさえあれば新品のモノが溢れ返っています。
     
     使える物は使う「リサイクル」は昔はある意味、超効率的な資材調達方法でした。昔は何でも一から作らなければならなかったので「どこかにある物」を持ってきた方が遥かにラクだったの
    ですから。「無ければ作る」、そういう時代を長く通して日本における色々な技術の向上を各方面にもたらしたかと思います。

     大澤寺の材は田沼意次を失脚させた松平定信の意向を保つための「公言」が「相良城の余剰材で作りました」です。
    松平は相良城破却のうえ材は他所売却の指示でした。

    しかし偶然火事で焼けて再建のための整地を終了していた大澤寺に目と鼻の先にある豊富な材を使用しない手はありませんでした。よってうまいこと相良城の材を流用したものの(特に床下の梁材)、表向き「余剰材」にしたものです。
    よって当山の少なくとも1/3は相良城のリサイクル材だと思います。