「3本の矢」は悲劇と滅亡を示唆している?

80年と85年立て続けに戦国時代を描いた「影武者」と「乱」は黒沢明の晩年の代表作ですが、各人好みはあるにしろ、私は「日本映画でひとつふたつあげてみろ」と言われたらこの二つもOKですね。

「乱」は黒沢の凝りに凝った作品でお金が相当かかった映画の一つですが当時の評価と興行成績は今一つだった様です。

 参院選の前哨といわれる東京都議選に大勝し「我が世の春」の宰相のテーマが「3本の矢」でしたね。

「乱」のテーマは「兄弟と悲劇」で黒沢がシェークスピアの「リア王」の3姉妹と「毛利元就」の3兄弟をイメージして作り上げた作品です(4本の矢)。

 

 年老いて引退を考えた某国の主(あるじ)「秀虎」が家督を三人の息子に譲る決心をしました。

ここでも記しますが惣領(長男)総取りで無く長男太郎には家督と一の城。次郎は二の城、三郎は三の城をそれぞれ与えて互いに協力しあって家を守っていって欲しいと命じたのです。

また本人はこれからは三つの城の客人となってのんびり余生を過ごしたいとも。

 その時の秀虎の3兄弟の前で行ったのが「3本の矢」のパフォーマンス。

「一本の矢は簡単に折れるが、三本束ねると丈夫に折れぬ」とは、毛利元就のエピソードですね。

リア王の末娘同様、秀虎の3兄弟の末っ子三郎は父思い故にそんな父親の進言に反発、力いっぱいに3本束ねられた矢をへし折って勘当させられるというものです。その後から「人間の性ゆえの無常と因縁の連鎖」で悲劇のストーリーが展開していきました。

 私は「秀虎」の「虎」から「武田信虎」をイメージしてしまいます。信虎の場合は事情が違うにしろ嫡男、惣領の晴信(武田信玄)に甲斐を追放されていますね。

またNHK大河ドラマ「風林火山」の武田信虎役が「乱」(「影武者」も同様)の仲代達也であったことから最近の私の「乱」ストーリーは「信虎の亡霊」が見た武田家滅亡の姿と重なるようになりました。

 

 実際には信虎は天正二年に亡くなっていますので翌年の武田家滅亡のきっかけとなったと言ってもいい長篠の大敗は見ていないのですが・・・。

 

 果たして現代の「3本の矢」の政策は、折れる事なく突き進むことができるでしょうか。

しかし3本束ねて折れ難くはなるでしょうが本来の弓矢の武器としては殆ど使い物にはなりませんね・・・

 

画像は信長連合軍が虎視眈々、武田軍をおびき寄せた長篠の馬防柵と武田方戦死者を葬った塚。死屍累々の武田の将兵の屍を集めて塚としたものです。対峙した武田側の丘の上にあります。

事に向かって突き進む雄壮さは時として必要ですが相手がその上をいけば、うまく力を削がれて大敗挫折するもの。

柵や壁、堀などの障害物に真向突き進んでも詮無きことはこの世の常。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (火曜日, 25 6月 2013 08:46)

    前回に引き続き懐かしい馬防柵です。

    3本の矢の大将は、悲愴です。
    民衆も贔屓にはしていますが不安です。
    ここで失敗したら日本は困るのです。
    奈落の底に落ちてしまいます。
    何とかここらで歯止めをかけて浮上してほしいのです。
    不安はあっても以前よりはいい。
    不景気は「気」。不安は一杯ですが、気持ちを持ち直して
    行ってもらいたいのです。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 25 6月 2013 19:56)

    ありがとうございます。
    「3本の矢」は毛利家では美談ですが、黒沢の「乱」では悲劇でした。両方とも人間そのものが矢に準えられています。
    人間の行動は様々で、くっついたり離れたり、あっちに行ったりこっちに行ったり、うまくいくこともあれば致命的失敗もあります。ある意味そういった数多の苦痛と楽が巡るが故の人生の愉しみであって、極論すれば「人間には死があるから面白い」という究極論に達してしまう一面があるのかも知れません。
    ただし当面の楽しみは死にさえしなければ「失敗と挫折」も、物事を成就した時の刹那の幸福感も何とか味わえるというものです。
    私ごときの希望の気などはまったくもって「如来の意向」であると心に治められるというもので、人間界の雑念と変わりありませんが、「楽しみたいなら健康の維持」というのが最近のモットーになっています。
    と偉そうなことばかり言いつつボヤキの連発の毎日ですが・・・