野田は野田でも畿内では、摂津の三好三人衆が城郭を整備し石山本願寺と連携して、対信長の橋頭保となった城が有名ですが、三河の野田城も歴史ファンならずとも知る人ぞ知る名城ですね。といっても石碑と高低差のみしか残りませんが。
駿河安倍城を引き合いに出して「アベとノダどっちが勝ち?」などというくだらないシャレを言うつもりもありませんが、両城まったく関係ありません。
つまらん事を書きました。
さて三河の野田城は別名「根古屋城」(場所はここ)。「根古屋」という語が城そのものの名になっています(→興国寺城 鳴海城)。
三河野田城といえばやはり何と言っても黒沢明監督の「影武者」の中で描かれた武田信玄狙撃事件ですね。
武田勢は怒涛の進撃で三方原にて徳川織田連合軍を一掃するなど遠州を席巻し、三河へ侵攻し余裕で菅沼定盈(さだみつ)が籠城する野田城を囲みました。
野田城菅沼家は今川家臣団の一画でしたが桶狭間を機に徳川方に帰属していました。
ブログで記した刑部城攻め(永禄十一年)に調略・先鋒として大活躍したのが菅沼定盈です。
後世徳川幕府の世に大名として続いたため当家の「一自慢話」としてその信玄狙撃==武田家滅亡の手柄を誇張したのではないかと揶揄された部分も無きにしもあらず、しかしまんざらその説も信じられないワケでもないですね。
お話は、籠城の野田城包囲の中、城中より夜な夜な響く音は笛の名人、城内にいた村松芳休の笛の音。
その味わいに敵味方関わらず聞きほれていました。
そんな中、籠城方の鉄砲の名人、鳥居三左衛門が、昼間、紙片のついた竹竿が堀端に立ったのを見て、もしや敵方の「やんごとなき将」の「笛の音を聴くための特等席」ではないかと考え、明るいうちにこの竹を目印に土塀の銃眼に鉄砲を固定して仕掛けておきました。
その晩いつものように笛の音が響き渡り、敵味方聴衆がしんみりと耳をそばだて、最高潮に達した頃、特設した鉄砲の引き金を引いたということです。
武田方の得意の甲州の金掘衆による「水の手切り」によって城は落ちていますが、この野田城戦以来、武田勢は甲州方面に急転回し信玄は三州街道上の信濃国駒場で亡くなっています。
正説はこのようなドラマチックなものでは無くあくまでも病気急変説ですが、私は「笛と鉄砲」の話を支持します。
設楽原資料館(場所はここ)には「その鉄砲」が展示してありました。
伊那街道から細長く伸びた台地は両側を谷の様な川が流れてまさに天然の要害。現場近くに行ってすれ違った住民に「野田城はこの辺りでいいでしょうか・・・」と聞けば「知らない」とのこと。
そんなものかと次の通行人を停めて聞けば「コレコレ」っと目の前の坂道と森を指さして教えていただきました。
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小山昭治 (月曜日, 24 6月 2013 11:44)
見た、見た。
確かに書いてあったけど本気にはしなかった。
説明する人がついたので、屋上で景色を見ながら、
戦の陣形などについて説明を受けました。
お互いにあんなに近くでの戦には驚きました。
でも 飛び道具のことを考えれば近いわけですね。
お城の(砦?)自然の崖を利用するのにも感心しました。
今井一光 (月曜日, 24 6月 2013 20:39)
ありがとうございます。
信玄の死についてはあまりにも唐突でした。
家康も為す術無くその進行を見送り、信長はその動行を固唾を飲んで見守っていました。
誰もが上洛を果たして天下に号令をかけることはほぼ間違い無いものと思っていたところです。
そこに突然訪れた武田軍の反転と信玄の死。
まさに信長にとっては「奇跡」だったでしょう。
考えてみれば信長はたくさんの軌跡に関わった人でした。
「桶狭間」も奇跡的事件でしたし、本願寺勢力にとっての「本能寺」は皮肉にも信長自身の死という奇跡的幸運をもたらしました。
私の如くいつ死んでも、いくら生きても「同じで変わらない」人生をただ漫然と生きていいるとこの年になってやっと気づいたという人間には、信じられないほどのタイミング(機会・縁)の良さというものにことさら感激してしまいます。
登場人物ぞれがあと数年命が永らえたらと思うと相当の確率で歴史というものが変わっていることが想像できますね。
また本人も当然ですが「間違いない」と誰もが思った時に足元を掬われている様子を見て、人間慢心すれば往往にして失敗するものであることが判ります。