奈良時代の行基さんのご縁の有無についての伝承(昨日のブログ杉本寺)に対してやはり聖徳太子との関わりについての「あれこれ」もしばしば耳目にしますね。
その意味での関わりの云々ではありませんが浄土真宗は開祖親鸞聖人の聖徳太子の夢告のエピソードもあって真宗門徒には「不可欠な人」として必ずその御姿(御軸)は本堂余間に飾られています。
中には尊像を作り太子堂を建立する寺院等、大切にされていますね。
かねてよりHP左のナビゲーション「波さん(おなみ)」にて「波さんのごじぶつさま」を紹介させていただいています。
「波さん」は当山十一代住職釋祐曜の姉で大奥2000人と云われますが江戸城十一代将軍徳川家斉の正室広大院(島津重豪娘)の元に出仕しました。その後、伊達家奉公を経て相良にたくさんのおみやげ、島津家からのザボンの木、衣類などを持って帰郷しました。
その伊達家の奉公あけで頂戴したのが聖徳太子像です。
その厨子の太子像の奥にしまわれていたのが「波さんのごじぶつさま」でした。
本体の聖徳太子像には添書き(嘉永六年1853年七月)があって、「どういう理由でコレを」ということが記されています。
労をねぎらう意での「慰労の品」ではありますが何とも手が込んでいて粋なプレゼントです。
当所波さんの大御所家斉の大奥出仕は既に田沼意次が失脚した直後でしたが、相良城に出入りしていた波さんの父親で当山十代の釋祐賢が伊達藩とのコネで波さんを江戸に上げました(これは先代住職の推測 その後異論あり)。
この書面からは、当時の御奉公(就職?)の際に提出する「履歴書」の様なものは個人の経歴などでは無くて、その人の出た「家」―出自―が問われたモノだったことが判りますね。
記されている内容の確証はどのようにして得たのでしょうか不思議なところです。自己申告?
今般其寺聖徳太子之
尊像調刻成瀬家
二条殿御由緒有之
候続を以当山
御杖銀杏樹願之通
被下候間難有頂戴
可被致候也
麻布山御内
結城采女
嘉永六辛丑年 春房 花押
遠州
大澤寺殿
書面の年号が辛丑(かのとうし)に読めますが嘉永に「辛丑」は無いので、今一つイイ加減な感じにもとれます。
年号と干支はつき物ですので間違えることがあるものでしょうか。
癸丑(みずのとうし)なら1853年でいいのですがね・・・。
ちなみに波さんが江戸城に上った時期は15歳前後。
伊達藩御役御免が32歳。亡くなったのが明治22年69歳でした。
そういう時代であったとはいえ、無茶ですね。
10代半ばで奉公に出すなんて。かわいそうすぎます。
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