掛川、東光寺の十九首塚は平将門一派の面々の石塔ですが、伝承は色々あります。
胴体は地元茨城県坂東市の延命院に埋葬されたといいますが首の方は京都まで予定通り運ばれて晒されていたところ「それぞれ」の伝承の場所に飛んで行って各地に首塚が残っています。
だいたい首が夜な夜な舞い上がって飛んで行ったという伝承よりも、掛川の首塚の伝承の方がどう考えても理にかなっています。
まあ、それだけ当時から彼、将門の庶民の崇敬を集めていた姿を感じとれるというものですが。
やはり「たられば」ですが将門がそのまま生きて、関東を覇していたら歴史そのものが変わっていたことは間違いないですね。都の天皇に対し東国に今一人天皇が立ったのですから。
さて、数ある彼の塚のうち一番有名なものとして「こんな大都会のど真ん中に?」という場所、ビルとビルの谷間にその首塚があります(場所はここ)。大手町です。
地価でいったら容積率の再評価ということもあって相当の価額になる場所ですが、あのバブル時代でさえもここに手を付けようとした人は居ず、そのまま今も墓地が残っています。
開発の歴史というものは、往々にして「問答無用」の強行主義であって鎌倉という地もそうですが、墓地と遺跡の破壊によって進められるといっても過言では無いと思います。
適当に坊さんやら何やらを連れてきて儀式的なものを催して墓地を改葬移転し更地にしてしまえば歴とした住宅地。
転売を繰り返せば何も判らなくなりますね。
鎌倉に限らず日本各地、ああいういわれ、こういういわれの旧来墓地の上に現代人は色々な営みを繰り広げているのです。
そのような中、大手町の首塚が厳然として残る理由はやはりアレでした。そう、あまりにも恐ろしくて所謂、「さわらぬ神に・・何とやら」だったのです。
要は自分自身がお墓や処刑場、戦場等の跡に住んでいながらこの墓地についてはどうのこうのとケチをつけている姿も滑稽ではありますが、人間の煩悩や自然現象による「ケガレ」「ハズレ」を亡き将門の怨霊に転嫁して不都合な事案の発生はすべて非合理、「崇り―たたり」と決めつけたというバカバカしさがあったのです。
そのおかげで旧跡が残ったのですから「崇り」もある意味ありがたいものですが・・・。
脱線しますが中世欧州でその崇りへの「畏怖」というものの現われを生きた人間に向けて解決策を無理やり見つけようとしたのが「魔女狩り」だったと思います。
現代でも責任を転嫁、「人のせい」にすることは庶民レベルから政治に関わる人たちの中までよく見られることですね。
皆で集中攻撃して一人の人間を潰すなんてこと、色々な会社でよく耳にしたものです。
真宗にはその意への解除(崇りから逃れる)という思想も崇りや怨霊、怪奇現象とやらの部類まで、それ自体の概念が無いことは周知の通りです。
念仏して頭を下げるという行為は「己の足元を確認し、確固たる人生を歩むぞ」という信念に基づいた「感謝と反省」の自然な表現であることを蛇足ながら付け加えさせていただきます。
将門さんの墓にはさすが大手町、平日昼時だったせいかひっきりなしにサラリーマンらしき人たちがお参りに来ていました。蛙の置物は「首が帰る」のこじつけからです。
何か帰ってきて欲しいものがある場合、この墓に人々が参拝したといういわれがあるようです。
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