細江のハンバーグ屋「さわやか」や服部小平太の墓から300m程度気賀方面に向かって右へ、金山神社を目指します。
俯瞰すれば川の手前の竹藪という感じでしょうか。
今川義元全盛は「桶狭間その時」(永禄三年1560.6.12)で終了しますが、その全盛は今川家そのものの最大ピークであり、義元の死=今川家滅亡への急坂下降のスタートでもありました。
桶狭間敗走以降、鳴海城の岡部元信と大高城の松平元康(徳川家康)ら「元と元」のコンビを除いて今川勢は一気に三河から駆逐されてしまいました。
元信は主君義元の首返還と鳴海城とを交換条件にして駿府に帰りましたが、元康はここで旧自領の岡崎に入り今川家からの独立志向を膨らませていくことになります。
人質生活で苦渋を飲まされたあの地に帰って煩いお屋形様、義元の子、できの悪そうな氏真の家臣として働くことより、代々受け継いできた岡崎に残って、とりあえず様子を見たいといったところではなかったかと思います。
しかし松平元康の結論は早く、義元亡き2年後の永禄五年には織田信長と手を結んで完全に軸足を今川から離し、逆に三河を完全統一し、当所は織田と同盟関係であった武田の南下作戦と併せていよいよ遠州今川領の切り取りにかかりました。
刑部城は遠州今川領、今川恩顧の地元領主が守る街道の要衝でした。
しかし城郭丘部の比高も規模も小さな城で兵力も小振りであったことは推測できます。
永禄十一年、一気呵成の松平軍の城攻め先鋒はやはり旧今川義元配下だった野田城の菅沼新八郎定盈(さだみつ)でした。同族で刑部城の北に位置する井伊谷城にいた菅沼忠久らも調略してこの城を難なく落としました。
城の周囲は比較的住居が点在していますが竹藪の中は滅多に訪れる人も居なそうで鬱蒼としています。登り口は神社の左脇から上がる道を探します。
その道さえわかれば数十メートルもかからず主郭らしき場所に行き当たります。
驚いたのは井戸です。③井戸の跡ですが、今それを見てもまさにそれは「井戸」であり、覗きこめば水が湧き出でそうにも感じるものです。中の石積みは当時の物?のワケはないですよね。
上部の崩落が激しくこれ以上埋まってしまわないような手だてが必要だと思いました。
半分朽ちかかった標識があって荒れ果てた城址ですが雰囲気だけは味わうことができました。
気軽に上がれますが、この時期この藪に入れば「こんな生き物初めて見た」と云わんばかりに人を御馳走呼ばわりしながら襲い掛かかってくる蚊の大軍の餌食となることは請け合いです。
この城には御姫様伝説があって落城前に近くの池に身を投げたといいます。池は埋め立てられたそうですが、河川が入り組んだ湿地帯でもありますのでそのような場所がらもあって蚊は大量発生するのでしょう。
単に姫様が姿を変えて生き血を吸いにやってきたといえばなかなか面白そうなネタになりますが「蚊」ではお粗末ですね。
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