小田原の母方の祖母すずさんについて以前記しましたが知る人ぞ知る小田原の隠れた名所、それでいて小田原の繁華街、この辺りはどちらかといえば健全な方の繁華街では無く、夕方にでもこの路地に入り込めば客引きのアタックに遭遇するかも知れません。
その駅から直線で50m程度しか離れていない場所にやたらと「鈴」が吊り下がっている「幸せの鈴」という場所があります(このあたり)。
鈴の件はともかくもこの地が小田原北条、4代氏政と八王子城主北条氏照の墓所になります。
ともに3代氏康の次男・三男(長子は夭逝)ですが、結局のところ秀吉の上洛要請をのらりくらりと遅延させて秀吉の怒りを買ってしまったことが北条家滅亡に繋がってしまいました。
「小田原の役」にて舅家康の陣場を訪れた氏直は命は助けられたものの高野山に流された後に失意のうちに亡くなっています。
後世小田原評定を「どう仕様も無い不毛の長会議」と形容したり氏政徹底抗戦派説、無能説等取り沙汰されていますが、
もともと信長時代には恭順の意思表明をしてうまいこと立ち回っていますね。
秀吉の成上り振りには腹が立ったにしろ現実問題としてあの時代に秀吉に刃向う事は、いくらこれまでの防御優勢の小田原であったとしても得策で無いことは判り切っていたと思います。
秀吉の小田原征伐という題目は秀吉そのものの天下への威勢の宣伝パフォーマンスと家臣団の働きぶりを監督する所謂「鷹狩」的なコマ回しを実践で試した機会だったのかと思います。
画像④3つの五輪塔のうち向かって右側の大きいものが氏政夫人のもの。
中央2つの五輪塔のうち右側が氏政、左側が氏照とのことです。
また、2人の五輪塔の前に置かれた平たい石が「生害石」といわれ、この石の上で氏政、氏照兄弟が腹を斬ったと言われています。
一番左の墓碑は笠を被る様に見えるため「笠塔婆」といわれる墓碑ですが刻まれている文字を記せば
慈雲院殿勝岩傑公大居士 天正十八庚寅年七月十一日
北條相模守氏政
青雲院殿透岳開公大居士 天正十八庚寅年七月十一日
北條陸奥守氏照
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