JR飯田線と秋葉道、国道152号線と水窪川の平行して走る3つのライン、高根城からほんの数キロ浜松方面に南下すると比較的規模は小さいながらも戦国期の山城があります。
その飯田線の「城西」という駅の、当然ながら東側に位置しています。こちらが大洞若子城です(場所はこちら)。
国道を左折し橋を渡って少し行けばスグですが、車を停めるのには少々難儀します。
若子城は高根城主の奥山氏の支城でした。
永禄三年(1560)、若子城主奥山加賀守定吉は兄の水巻城主奥山美濃守定茂と信州遠山氏と謀って攻められ落城しています。
上記は高根城(九頭郷城)城主、奥山家(藤原北家―のちに藤原南家説が本流―井伊氏流で南朝方)当主の奥山定之の4人の男子にそれぞれ城を与え国を分割したことを機に長年のライバル遠山家の介入という隙を与えて終いには滅亡という道を歩んだというものです。
この辺りの戦国期特有でありふれているといえばそうなのですが、あまりにも教科書通りに人間の持つどうしようもない性質から惹起される様々な悲哀は特筆もの。
ドラマ化したら結構面白いものに仕上がるかもしれません。
「父親の愛情と子供たちの独立による争いと滅亡」です。
父として奥山定之はきっと4人の男子に恵まれることに、最上の幸福感を得たでしょう。その辺の所、想像に難くありませんね。
奥山能登守定之の四人の男子は、嫡男の民部少輔貞益が高根城を、二男の美濃守定茂が水巻城、三男加賀守定吉は大洞若子城、四男兵部丞定友は小川城でした。
毛利家の「3本の矢」どころか奥山家は「4本」ですから数が増えればより強固に感じます。
しかしブログでも何度か触れていますが男子が多くても結果的に紛争の元となって惣領家を盛り上げるどころかすべてが水泡に帰すなどということが多々ありましたね。
その点、足利惣家や今川家は惣領総取りでした。
次男三男は寺に入ることが慣例で、惣主に何かあれば還俗することはありましたが、この戦国期に、将来の平和と繁栄のために「子供たち仲良く」を所望し兄弟分それぞれ領地を分割することはどんなにいいお父さんであっても、やはり「田分けもの」だったのかも知れません。
薩摩の島津系は惣領より庶子が力を付けて逆転し分家が惣領化するという特異な家系でしたが、この系統が家というものを長期に渡って一所懸命に存続できたのは政治中心よりドがつくほどの辺境にあったこと。
北側の国境以外の方角が海に囲まれていて注意警戒は北側のみ、敵対勢力は限定されるという防衛上の利点と、海を海上貿易の門とした経済的利点が効いたという理由でしょう。
車を停めたら渓流脇の山道を上りますが標識を右に川を渡った所に巨石が迎えてくれます。
城大手に繋がる虎口でしょうがこの巨石を利した門があったのでしょう。
これを抜ければ登攀路になりますが、左側(東側)を見下ろせば開けた平坦部分がありました。
街道筋からは城の裏側という感じになりますが、明らかに城の縄張りであり何らかの遺構の存在を推測させます。
個人的感覚ですが規模はもっと大きいものですが甲斐武田躑躅ヶ崎館の城背後の山側の平坦地をイメージしました。
尾根づたいに行けば堀切の跡等かつての山城の姿を窺うことができます。
最期の画像が主郭跡に建つ社殿の加賀守定吉の碑。
川の崖淵に車を停めましたが民家がありました。
そこの表札を拝見すれば「奥山」さん。
声がうわずる様な感動を覚えた次第です。
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