日本の敗戦後、中国に日本側スパイとして処刑された清朝の王女様、愛新覺羅(あいしんかくら)、日本名、川島芳子はテレビドラマ化もされた「男装の麗人」という小説のモデルでした。
またタカラヅカの男役のことをそのまま「男装の麗人」と言ったりしますね。
戦国から江戸を通してその「男装」についてピリピリと要注意監視の対象になった場所がありました。
女装して敵の目を誤魔化すことについてはブログで数度に渡って記していますが(① ② ③)、女性が男の恰好をして目を眩ますことは「その時」特に警戒されました。
昨日のブログに記した江戸時代街道に設けられた各関所の通過です。
重点的に女性に対してとられた検問の厳しさは関ヶ原直前の大坂城周辺で石田三成の手でも行われていますね。
江戸時代の関所による女性チェックシステムも大坂城でのそれも要は「人質逃亡阻止」が主眼であることは言うまでもありません。
為政者が家臣の家族を手元に置くことは古(いにしえ)からのならいですね。
その大事な家臣忠誠のタネはいわば天下平静を担保するもの。
それに逃げられたとあってはまさに元も子も無くなってしまうのでした。
さて5月15日NHK歴史秘話のタイトルは「石田三成“悪役”伝説の真実」でした。
現代の三成評価の悪さは殆どが江戸時代に演出されているということは判りますが、番組は結構端折っていましたね。
穿っていえば三成の「悪役伝承はウソ」ありきのような構成だったように感じてしまいます。
東本願寺系の坊さんとして語るのはお許しいただくこととして、教如上人への執拗な追捕捕獲の追手、そして本意では無く当の本人も失策であったと大いに反省したことでしょうが細川ガラシャ―細川忠興の正室・玉子の憤死に追いやる人質作戦、その2点はまったくいただけませんね。
後世の忍城水攻め失策については指示が秀吉にあったことは最近になって私も知り得ましたが・・・。
そうです三成は自らの陣営(西軍)に残すため姑息ともいえる露骨な人質確保の手を女子供に伸ばしたのでした。
家康がそのような「嫌らしい」とも思える関所システムを確立したのはやはり秀吉のバックボーンになり得た三成の効率的な政策運用にヒントを得たのでしょう。
関所の通行はオトコに対しては比較的ラクに通過することができますし、大元の手形発行もオトコの場合は難なく取得出来たといいます。女は「女手形」と言って性別に関しては最大チェック項目でした。
よって男装して役人の目を誤魔化すことさえできればと思うことくらいは誰でも思いつくでしょう。
実際に関所では今でいうニューハーフっぽいオトコであれば要チェックされたと聞きますので、各現場では実際に男装して捕縛された女性が居たかもしれません。
勿論状況次第で関所破りと判断されれば磔刑となりました。
画像は気賀関所跡と高札+訳です。
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