夏に大流行すると言われる風疹感染者が爆発的に増えているそうです。
③のグラフの通り半端な数字では無い伸び具合ですね。
特に、妊婦が感染するとお腹の子供に「先天性風疹症候群」といわれる色々な障害が出る恐れがある疾病です。
比較的男性感染者が多く、社会に流布させてそれを妊婦が感染し胎児に影響が出るという図式です。
根絶には若い男性の予防接種が欠かせない病気です。
予後も大したことなく(三日はしか)治癒する傾向があってあまり重篤な病という感じがしないこともあり積極的に予防するという心がけが徐々に喪失していったのでしょう。
このウィルスは数年前まで発症はゼロに近かったため医学界ではこのウィルスに関しては「人類は勝利した」くらいの気持ちになって、もはやその再燃はあり得ないことと思っていたのでしょうか。
ところが今年になってこのあり様。どうやら余裕をかまし過ぎた様でここに来て痛い目にあっています。
旧名、飯富(おぶ)源四郎、「源四郎の赴くところ敵なし」と若い頃より相手から恐れられた山県三郎兵衛昌景の名は周辺諸国にも響き渡り、その名と配下の「赤備え」の姿を目にしただけで勇猛な武者であっても恐れおののいたといいます。
武田家四天王の一人で他の馬場信春、内藤昌秀、高坂昌信らと、駿州・遠州各地、相良から高天神にも転戦、武田騎馬軍団を率いた屈強の武将と伝わります。
その屈強の武将の風体に関して記された書物、これは幕末に記されたもので信憑性については不詳ですが、
「袴腰と頭との間、僅か四、五寸ならでは無き程の小男にて、不器量なれども渠を備え、立てば耳の際に雷が落ちたる如くなり。信玄家臣の中でも股肱の大将かな。戦にては信玄の小男出たりと恐怖しける程の侍大将に有りける也」
とあります。
身長130~140cmの小男、口蓋裂のある不器量とのこと。
三方原で大殿家康を蹴散らして当家御先祖成瀬藤蔵を滅した戦国時代有数のタフガイ「山県昌景」、見た目では人を計れません。
彼の身長についてはその時代の成人男子としてはそう珍しいものでは無いとは思いますが、どちらかと言えばやはり小さい方ですね。
そして口蓋裂によって顔が裂けていたということを想像すると胎児でいる時に母親が風疹に罹患していた可能性がありますね。
現代において口蓋裂は手術によって殆ど原形は判らなくなりますが当時はそのような技術も無く、山県がもしそのような障害で悩まされていて、それら苦難を踏み越えて、あの名声を得たことを思量すれば、今更ながら尚感服するばかりです。
先述した私がかつて少しばかり衝撃を受けた尾崎一雄の小説「すみっこ」がこの障害、口蓋裂を持って生まれた子供と父親の色々な思いを描いたものでした。
画像①②は長篠古戦場の藪の中に佇む山県三郎衛門昌景の宝篋印塔と一統の墓。
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