松阪の地は織田信雄の手による伊勢湾岸の松ヶ島城に蒲生氏郷が入ってから場所を移し松阪城を築きました。
氏郷が小田原征伐以降、会津に加増移封された後はやはり織田家恩顧で桶狭間では今川義元に一番槍を突っかけたといわれる服部一忠が入りました。
服部は運悪く豊臣秀次付となったため秀次事件(1595年)に連座して腹を斬らされています。
その後、近江から古田重勝ら二代が入ったあと古田家は石見浜田城へ転封、松坂は、紀州藩の飛び領地になりました。
1863年にこの城の下、南東側に「御城番屋敷」が建てられました。画像①です。
復元されて手が入っていますがいい味をだした建物です。
長屋風の建物ですが現在も住居として供され現住の方がいらっしゃいますので観光気分で玄関先を覗き込むのはタブーです。
城の裏門と搦手門を結ぶ道路の両側に位置し松阪城の警護にあたった40石取りの紀州藩士20人と、その家族が住んでいた屋敷といいます。現在は1戸が切り詰められて現在は東棟10戸、西棟9戸が並んでいます。
お城側の西側の一戸は公開されていてボランティアの方が常駐しています。
ふらっと立ち寄って見学していると気さくな女性が声をかけてきました。
「どちらから?」と聞かれるので「遠州相良です」と応えると、感動したように「私たちの御先祖は遠州横須賀からこちらに来ました」と。
相良田沼が紀伊藩出身であることは承知していましたがこちらで「横須賀」(現掛川市)の地の話が出たのは驚きました。
この城の警護にあたった紀州直属の「御城番武士」たちはそもそも「横須賀衆」と呼ばれた高天神時代から家康に従って各戦いを転戦した先鋭部隊だったのです。
横須賀衆といえば大須賀康高配下「横須賀七人衆」の筆頭の渥美源五郎勝吉が有名です(→首切坂)。
ここに住まわれていた家族の子孫がここで解説等のボランティアをしていたのでした。
思わぬ場所で旧来の遠州人に遇うことができてこちらもいたく感激いたしました。
横須賀衆は結束力強く、家康十男の頼宣が「御三家」の一、紀州家に転封時直属家臣として紀州に遣わされた時に同行したのが始まりです。
土蔵(下の画像)は江戸末期に松阪城内の隠居丸に建てられていた三棟のうちの一つで米蔵です。
旧松阪城関係の建物としては唯一の現存建築物とのこと。
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智弘 (金曜日, 03 5月 2013 21:53)
こんばんは、遠州本間家について調べています。掛川・田辺安藤家に仕えた「御城番武士」の中には高天神衆系の姓があるのでしょうか?
今井一光 (金曜日, 03 5月 2013 22:36)
ありがとうございます。
「御城番武士」についての詳細は勉強不足で僅かな知識のみ
ですが、そもそも「横須賀衆」が発祥であり、その一団と
なれば当然に対高天神城の付城である横須賀城の先鋭隊と
なります。
当HPの「高天神崩れ」の中にも同姓の方(たとえば山本与五右衛門等)が散見できますがハッキリとしたところではありません。
その他「苗秀社」という「御城番武士」の子孫が運営する
組織がありますのでそちらから追っかけて行けば目的の
姓について判明するところがあるかも知れません。
私も十分に興味あるところですので何か判明するところがありましたらご教授ください。