臨済寺の今川家墓所 こちらにも雪斎の墓所

善得院(善徳寺関係はこちら)を前身に、今川氏親が出家させた栴岳承芳(今川義元の僧籍名)の為に、母親である塩買坂で討死した父の義忠室、北川殿(伊勢宗瑞~後世北条早雲~の姉)別邸跡に建立されたのが臨済寺です(場所はここ)。義元の兄で24歳で亡くなった先代の今川氏輝の菩提寺となり以後当家代々の菩提を弔うようになった寺です。

  

 臨済寺さんの画像は昨年6月に山門等をアップしていますが今一度お寺について記します。

地図を見て頂ければ一目瞭然、現駿府城址の北側になります。

 家康による駿府城の築城によりかつての今川館がその駿府城の場所にあったのか、少しは離れていた場所にあったのか詳細は不明ですが、このお寺が北川殿の館を前身とすれば、当主の館はその南側(「北の方」についてはこちら)にあるのは当然のことですので現駿府城址の方向であることは間違いないところです。

しかしながら現在の駿府城址に主館を想定したとすると距離的に離れすぎていると思います。

いくら本妻がけむたくて側室をたくさん侍らしたかったとしてもです。

何より、戦時の今川家の城郭が臨済寺背後の賎機山城ですので根古屋としての居住地域が離れているのは防御上不利になりますね。

 

 よって私は今川館のあった場所は臨済寺のスグ南側、現在の静大のキャンパスから城北公園辺りだと思います。

当然に現駿府城は大御所が旧来の今川の館を微妙に外して、かつ数段のスケールアップと堀を廻らして建てたものとなったのだと考えています。

 これは定説では無く私の勝手な考えですので。

城北公園辺りの発掘調査は試みているのかわかりません。

 

 さて、今川家菩提寺としての臨済寺といえば3人の名がどうしても思い浮かびます。今川義元、軍師太原雪斎そして竹千代(家康の幼名)ですね。竹千代は約12年間この寺で雪斎の教えを受けています。

武田勢による駿河攻めにより当寺も灰燼に帰していますので後に家康が再建し幕府直轄寺としました。

 

 

上記画像①は善得寺長慶寺に次いで太原雪斎の墓。3か所のうち一番新しそうです。②は臨済寺境内墓所。一番上の塀や垣根に囲まれた場所にあります。勿論後ろの山が賎機山。③が徳川慶喜の揮毫による「大龍山」の山号の額。