西田敏行扮する落武者姿の幽霊が主人公の奇想天外・奇天烈な日本の映画がありました。
だいたいクロサワ亡き後の時代劇以外の日本映画などはバカにして見向きもしていませんでしたが、最近になって日本映画でも案外「最後まで観てしまった」ということがありますね。
「濡れ衣を着せられて咎められ、首を落とされた戦国武将が幽霊になって現代に現れた」という設定の「ステキな金縛り」という映画です。法廷サスペンスコメディというカテゴリーとのことですがその落武者役が西田敏行。
タイトルその他一見して、あまりにも荒唐無稽でバカバカしいと嘲笑するところですがその落武者にはしっかりモデルがいたのです。劇中では「更科六兵衛」という名でした。
最近、当ブログにて松田・笠原に関わる内容を記しましたが、「更科六兵衛」の設定は実在した「笠原新六郎」という人がモデルといいます。
笠原新六郎政晴(政尭)は松田憲秀の長男とも次男とも言われています。
松田家も笠原家も北条家臣団では大身の家系で重役クラスです。
当時代「惣領」であるはずの長男を他家に養子に出す筈がありませんので推測ですが、新六郎政晴は長男では無かったと思います。松田家は長宗我部元親の様に男の子に恵まれていたのでしょう、例えば次男として生まれ、笠原家家督を執るために笠原家へ養子入りし、その後弟の直秀が生まれたところで、本来松田家を継ぐはずだった長男が亡くなって、先方笠原家の事情もあって復姓せずに松田家家督は弟の直秀が継承したという図式がスマートです。
そういうことで松田家と笠原家は「兄弟」ということになります。
さて、世にいう「小田原評定」はウィーン会議の「会議は踊る」ほど華やかではありませんが同様に「一向に進まない」「埒があかない」話し合いの代名詞ですね。
その「小田原評定」の議題は勿論、秀吉との「徹底抗戦籠城か和睦開城か」でした。
二つに一つの選択肢はなかなか決まらないのは当然でしょうね。
下手をすれば家の滅亡にも関わることですから。
歴史は、皮肉にも二代氏綱の訓戒「義を守りての滅亡と、義を捨てての栄華とは天地格別にて候」の通り北条氏滅亡と繋がりました。
その小田原評定の中の一つの事件が小田原開城降伏を決定づけたといいます。
天正八年(1590)秀吉の小田原征伐で、笠原政晴は父親の松田憲秀と当初は徹底抗戦派でした。
通説ではそこに秀吉側で小田原を包囲していた堀秀政の調略によって松田憲秀・笠原政晴はともに豊臣方に内応しようとしたそうです。
憲秀次男で政晴の弟でもある松田直秀はその誘いを断って注進し小田原北条五代目当主、北条氏直によって阻止されてしまいます。
憲秀は監禁、政晴は斬首という結果になりました。
開城後に憲秀は秀吉に切腹を命じられています。
この事件は堀秀政の調略ですが、他の説には両人謀反という偽情報を小田原方に流したことによる成果ともいわれています。「のぼうの城」の忍城主の成田氏長が豊臣側への降伏を内通しながらも小田原に籠城していましたね。
調略、陰謀等、えげつない戦法はいつの時代にもあるものです。
徹底抗戦派の松田親子の寝返りについての噂を流して城内を疑心暗鬼の状態に陥らせようというものでした。
そんな噂に翻弄された挙句嵌められて一所懸命に働いた甲斐無く城主に咎められて首を刎ねられたのが政晴であり、死した後うかばれずに幽霊となってコメディ映画のネタにされたというのでしたら本当に可哀そうですね。
画像は北条氏綱が築いたといわれる 伊豆と駿河の国境、現在の伊豆、清水町徳倉の本城山公園、戸倉城址(場所は龍泉寺の上部)。
三国同盟が破棄された後、永禄十一年(1568)から元亀二年(1571)の間、北条対武田の戦場となりました。
この城に城将として武田軍と対峙していたのが笠原政晴です。
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笠原多見子 (木曜日, 17 8月 2017 12:16)
私の先祖の墓は岐阜にあります。
そこには笠原新六郎の墓があり、
暮石の裏に戸倉城主と刻んであります。
今井 一光 (木曜日, 17 8月 2017 13:32)
ありがとうございます。
面白いですね。岐阜でしょうか。
是非墓参りさせていただきたいものです。
よろしかったらお寺の名称をおしるし頂ければありがたいですね。
近藤祥江 (土曜日, 25 8月 2018 13:34)
父松田馨は尾張守の子孫といっていましあ
今井一光 (土曜日, 25 8月 2018 17:39)
ありがとうございます。
ということは私と同じ小田原の空気(箱根と相模湾からのミックス)を吸った
ということですね。