長興山紹太寺の360段の階段を昇りきると平坦なみかん畑が出てきます。これは山の中腹の「踊り場」の様です。
かつてこの地に当時の紹太寺の伽藍塔頭があった場所ですね。
銘木シダレザクラはこの広場から右に折れます。
正面にはスグにその「奥津城」の一端でしょう、小田原城主稲葉家に関わる人々の墓域があって、五輪塔群の上部が覗えます。
「奥津城」(おくつき)とは飛鳥・奈良時代からある「墓域」や「墓場」または「墓」そのものの呼名で万葉集にもその名があるそうです。
現代での使用は神道系の墓石にはまず殆どこの名称が使われています。真宗系の「倶会一処」とは少し意味が違いますね。小田原には「奥津」姓が散見できます。
ズラッと並んだ稲葉一統の墓群のお出迎えを受けて森のマイナスイオンを深呼吸すれば登攀の疲れも一気に飛び去りますね。
江戸初期の作でそう古い墓石では無いですが、「地水火風空」の文字の彫が深くクッキリと出ています。
その中で真っ先に他と形が違うことから末裔かとも思ってしまう長方体の、現代の墓石風のものが隅っこに建っています。
このお墓がこの墓域と、建てられた「御霊屋」(みたまや)の施主である小田原藩二代藩主で老中稲葉正則の墓です。
中央の五輪塔異形のもので「風輪と空輪」が一体化したような背の高い墳墓が春日局の供養塔です。
正則は春日局の孫で「御祖母さん子」であったそうですがその気持ちからここに祖母を偲んでそれも中央に置いたのだと思います。
③春日局④稲葉丹後守正勝⑤稲葉美濃守正則⑥正則正室
⑦正則長兄⑧正通後室です。
下の画像は360段の階段の最期に出迎えてくれる味のある石橋、「透天橋」です。
稲葉正則の重臣で田辺権太夫夫妻の寄進だそうです。
今は水は流れていませんがかつてはすぐ山上の「石牛沢」の流れが通じていました。その沢を「放生池」(ほうしょうち)と呼んだそうです。水棲生物等をここで「放って生かす」という意味とか。
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