余りに寒い冬でしたから、「春分」後の明るいお日さまは嬉しい限りです。相も変わらず遠州特有の「暴風」は思い出したように吹き荒れますが、しばらくすればどうにかなるでしょう。
また、毎年この時期になると安吾の小説の中のフレーズが頭を過ります。
昨年4月11日のブログで記した通りです。
そういう意味からしても今年の暖かさの早まりもかなりのものだと思いますが暖かくなるのが早まるのは嬉しい誤算でしょう。22日には東京は満開だとのこと。
安吾の言う通りに桜が人を狂わせるのか、桜の咲くその陽気が人をそうさせるのか、昔からこの季節にまつわるそんなニュアンスの言葉は確かにありましたね。
それにしても不思議です。先日のかなり気温が上がった日に各地で人が狂気と化して暴れた事件が頻発しました。刃物を振り回した事件が東京と浜松で発生し、横浜でも公道で殴りあって人を殺めた事件がありました。
季節の変わり目が人をそうさせるのだと断定できません。この時期に色々な意味で人の動きの変化が訪れるということは確かですが・・・。
安吾の住処があった小田原南町には、ひっそりとした住宅街に埋もれた、私がこれまで観光客とはすれ違ったことの無いほどマイナーとも思える北条時代の遺構があります。
この頃になれば、小田原城から御堀端通りは観光客でごった返しますがここの公園はいつもひっそりと静かに佇んでいます。
場所は南町4丁目4番(場所はここ)。
ちなみに私が南町3丁目の通称「お花畑」で生まれてから中学2年まで過ごし、中3から高3までを相良、その後は小田原南町2丁目に戻って色々、最後は横浜に出ました。
北条時代の遺構のあった場所は国道1号線からJRと平行して走りだす国道135号線が始まって100mほど走って左折したドン詰まりにあります。ただし駐車場も無く道は狭いので無茶苦茶訪問しにくいことは確かですので徒歩がお勧めですね。
その国道から入る小道は「大久寺通り」と言われた古道で国道の敷設によってこの早川口遺構と小路は寸断されてしまったことが推測されます。
画像は早川口遺構。
ストレートで目指せば案外近い場所です。
お城の下の道からトンネルを通過して国道1号を渡ればスグ。
小田原城は永禄四年(1561)に長尾景虎(上杉謙信)、永禄十二年(1569)には武田信玄に大攻勢をうけますがいずれも三代北条氏康の籠城戦により退けています。
その後も小田原城では改修工事が進められ、天正十五年(1587)までには丘陵部を取り囲んだ「三の丸外郭」を造営したといわれています。
さらに天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原の役では城下周囲9kmに及ぶ「総構」とよばれる土塁と堀で城を囲みました。
これまで先代がやって成功していた「籠城戦」を秀吉に対して試みたわけです。
これまで小田原を攻めていた武将やその世間の状況がまったく変わっているにも関わらず最大限の強化はしたものの「同じこと」(籠城戦)にて対応できると判断し、秀吉に攻めさせるという最大のミスを犯してしまいました。
「早川口遺構」は住宅地にあるにも関わらずその姿を比較的良く残している遺構だと思います。
ここは城の南西に位置する虎口(入場門)としての施設でした。
「二重戸張」と呼ばれる土塁と堀を二重に配した構造だったと言われますが、明治期に個人所有の庭園になっていたため相当の改造があったようです。
しかし堀跡らしき窪地と土塁の様子がうかがえます。
画像の石垣はさすがに後世のものでしょう。
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