静波の笠原家御一統は元は当大澤寺今井と同様近江門徒と聞き及びます。
桜の季節となりますが近江は守山市に笠原という地があって桜で有名な「笠原桜公園」がありますね(場所はここ)。
かつて私が御世話になったニッパツの野洲工場が近くにあります。
位置的にも「湖東」であり私たち今井の出た安土とはそう遠くない場所でもあります。
笠原家は当地区でも指折りの旧家で江戸期には大店の廻船問屋として当地の発展に寄与しました。
当山九世「祐厳」の娘「こと」が(因みに私が15代目です)「笠原八郎衛門」に嫁いでいますのでいわば笠原家とは親戚筋。
今井家は本願寺という大集団の末寺ではあるものの大した財力はありませんでしたので笠原家は当時より大きなスポンサーとしてお世話になっているところでしょう。
今は無き本堂の片隅にあった威厳のある御内佛は当笠原家からの寄進によるものでした。その辺のところは祖父や笠原家前御当主等よりお聞きしていましたが、そこのところ先代の父は知っていたのか知らずにか判りませんが極端な「新し物好き」で私が気付いた時にはその由緒ある御内佛は処分されて、庫裏の奥の間に真新しい御内佛が鎮座していましたね。
目を疑いましたし、私は酷くショックを受けて父に詰問しましたが、まともな返答がかえって来なかった事を覚えています。
父のその「新し物好き」は「価値感の違い」といえばそれまでですがいやはやこれは病的で、母も同様ではありますが、戦中戦後の物資に困窮した時代を経験したその反動であるのかと思います。それがキラキラの新しい物を欲求するという姿になったかと。
当然、私はそれを見て反発して育ちましたので自称「古い物好き」になりました。また父は教職一本で通した人でしたから「学校」の外に一旦出たら他事への知識は殆どゼロ。大工仕事など見たこともありません。祖父もそうでしたが、坊さんはずっとそれで通ってきたものなのでしょうか。
対人関係も父の側で見ていてハラハラさせられましたが、まるで相手を「生徒」か「用務員さん」への対応の様に話していましたね。
何しろ知らないことが多いので押し売り、流しの外商の輩のセールストークに弱く、気が付いたときは色々な無用品を購入するハメになってそれらが一時期家中に転がっていました。
今でも各種セールスが忘れた頃に訪れます。
文字通り門前払いすれば「お父さんはいい人で色々買ってもらったのに・・・」と捨て台詞を吐いて帰っていきます。
京都の各種衣装店との付き合いも深かったようでたくさんの衣類の在庫は豊富です。私は法務にあたるようになってから10年近くなりますが今だ私のものとして白衣も黒衣も衣も輪袈裟も袈裟も、足袋1つでさえ何一つ購入したことがありません。
すべて父、祖父のお古か購入しすぎて持て余している在庫で賄っています。
衣装店で購入したものは唯一次男の得度に使った衣だけでした。
私は何を云われようが笑っていますが、父母はそんな私を「ドケチ」だと言っていますね。
一つ一つぼやいていればキリが有りませんが、御内佛処断の他、腹立たしかったのは庫裏の古い障子をアルミ製の無粋なものにしてしまったことと、本堂裏、庫裏の外壁に一時流行っていた「サイディング」を施工したことでしょうか。
古い障子は味があっていいですよ。私は好きなのですが。
今、骨董屋等で探して元に戻していこうとしたら相当の額になってしまいます。
何よりサイディングは最悪です。いわゆる「ババ隠し」の「サイディング」は中の劣化状況を見えなくしてしまうという決定的なマイナス要因があります。
特に発生した中空間がシロアリ等の巣窟になることが多いです。
あの建材のまともなところは何一つありませんね。
工事は縁の下の部分まで覆ってしまいましたので庫裏はシロアリの餌になってしまいました。
次の地震では絶対に倒壊するでしょう。
本堂の方は前回工事にて裏のパネルはおかげ様で全部撤去し漆喰で処理しています。
画像①は笠原家仏間の御内佛。在家のもので私の知りうる限りの最大の物です。(襖2枚分の間口?)
御内佛の前後に襖があって火事等の緊急時に後方部も開放することができ仏壇そのものを倒して持ち出せるようになっています。
②は当家の庫裏、私の背後の障子。冬はすきま風で寒いです。「いろは」が駆け上がって爪で破きます。
余裕があれば父親が入れたアルミ製を撤去して、この手のものを入れたいものですね。その前に庫裏の強度アップを検討しないときっとその時は「下敷き」ですが。
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