相続関係のこじれは禍根を残してしまうことは歴史上どころか現代でも当てはまりますが、戦国期の家督相続は命がけという状況も多々ありました。
よって戦国期以前の室町期、足利将軍家にも見られましたが後から生まれた「余計な男子」(・・・庶子)は早々に寺に入るなどして相続権の放棄を表明するか、家臣系統や侵略和議の手段としての「婿入り」等をして他家「惣領」としてその家督を継ぐことになりました。
坊さんになって還俗して相続争いに加わる一番の例は今川義元、婿入りして元に戻った例では伊勢の名家、北畠具房の養嗣子となって北畠具豊と称し北畠家督を相続したものの本能寺以降復した織田信雄がいますね。
坊さんになったとしても一旦事が起これば「還俗」という裏ワザや養子に行っても復姓して相続権の再主張などの例は枚挙にいとまがありません。
しかし一応はそのことによって家督安泰の体裁を内外に表せました。
「あんたら本願寺もそうだろ」とご指摘を受けるところですが男子世継ぎについては「無い」ということも悩むところ―江戸期の断絶=御取りつぶし―ではありますが、どうしても複数の男子があれば「目出度くも有り難いこと、そして家の安泰」ではあったものの、男子多くして致命的な紛争を惹起させたものです。
その件「御当主様、それはオカシイ裁量でしょ」と家臣も首を傾げる順位逆の家督指名によって家が傾き、仕舞には滅亡にまで至った名家がありました。
四国の雄、長宗我部家です。
長宗我部親子、父-元親、子-盛親は秀吉の命により小田原北条攻めに遠く四国から水軍を率いてやってきています。
相模湾の封鎖は九鬼水軍が有名ですが、長宗我部親子もその相模湾に水軍として進軍し滞留しています。
そもそも長宗我部元親は本願寺の存続同様紙一重で命が続いた幸運の人だったわけです。何と言っても信長の四国征伐の号令が下ったその日に「本能寺」が起こったのですからね。
長宗我部元親が不幸の人となってその没落のきっかけとなったのは言うまでも無く、秀吉配下として九州島津征伐に赴いて最愛の嫡男信親を失ったことです。
失意のうちの家督継承について彼が選択したものは次男の香川親和や三男の津野親忠(例に違えず次男・三男は養子として他家相続済)ではなく、四男末子(既に五男出生あった?)の盛親に家督相続を決定しました。
やはり普通に考えれば次男を嫡男として戻すべきだったでしょうか。
この件について家中は大いに紛糾し、対立が起こって反対派の家老職等有力家臣多くを粛清にまで追い込んでいます。
その手の話は対外的にも良きこととは決して認められないことは常識で、秀吉は終生盛親に冠位を与えていなかった様です。
盛親は関ヶ原で日和見を決め込んだものの西軍の将として動いていたため改易されたのち浪人の憂き目にあいます。
大坂の陣では豊臣方として招かれ、軍勢を指揮して奮戦しますが、結局は敗走して捕縛されたのち六条河原で斬首、三条河原に首を晒されるという道を辿りました。
六人の子女たちも同じ運命です。
末っ子といえばどこの世界でも従順純情で賢く兄思い(「アリョーシャ」・・・カラマーゾフの兄弟)というのが定番なのですがね。
関ヶ原の盛親の日和見については謎ですが、改易の本当の理由は兄の津野親忠殺しについて家康が激怒したことによるものと云われていますね。
とにかく兄弟は仲良く、親は上の子をたてるというのが一番の「家の安泰」に導く術なのでしょう。
画像は
①小田原城八幡山古郭東曲輪跡からの現小田原城と相模湾
②小田原水之尾口から石垣山と相模湾を望む図。
水軍は相模湾を埋め尽くしたことでしょう。
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ha (火曜日, 12 8月 2014 08:52)
系統図を載せてください。
今井一光 (水曜日, 13 8月 2014 09:46)
ありがとうございます。
名前の羅列だけではわかり難いですね。
長宗我部家は家柄も古く同族も分派し同姓も多く歴史上存在します。
ご指摘の通り、元親周辺の系統の略図を記しました。