「この世をばわが世とぞ思ふ望月の
欠けたることのなしと思へば」
は平安時代の日記文「御堂関白記」でお馴染みの・・・しかしお馴染みという表現は、少し早いかも知れませんね。
ゆくゆくはユネスコの「世界の記憶」指定の報せが届くはずです。本格的メジャーの世界はそれからですね。
きっと各種番組等にとりあげられることでしょう。
関白にはなっていないのに関白の称が付いている藤原道長の日記です。
藤原道長のこの世の栄華を極め所謂「やりたい放題」、自らの死後の心配のみにみ拘って「法成寺無量寿院」(「無量寿」は阿弥陀さま)という大伽藍を建てています。「御堂」とはその寺のことですね。
道長は以後代々に渡り世に権勢を振るった「藤原摂関政治」を揺るぎない確固たるものにした人です。
ちなみにやはり世界遺産となっている宇治の鳳凰堂は彼の息子、頼通の建てた阿弥陀堂ですね。
「源平」という「戦争の犬たち」(「解き放て優れた猟犬を・・・」シェークスピア・・・)が勃興してくる、ずっと以前の頃(平安期)、最大権力者に登りつめたその藤原道長です。
彼は実を云えばスーパーヒーローの藤原鎌足を祖とする一流どころの家系に生まれたものの、四男(または五男)として生まれたため、相続の順位は後位で、ほとんど後の世でいう「庶子」の類であり、普通の生涯であれば歴史の表舞台に登場することは無かったでしょう。
一説に道長の兄たち、長男が大酒飲みで失策をし、次男が流行病で亡くなるなどしてからビックチャンスが転がり込んできたようです。
人間、結局「どう転ぶかわからない」の一例でした。
さて松田町の「惣領と庶子」の由来は松田(波多野)有常という人の二人の息子についてのものです。
松田家は藤原北家流、関東の押領使としてあった藤原秀郷の系統です。
藤原秀郷は平将門の乱を鎮圧して当時の無策無能の中央政府を大安心させた初期の武士(・・・犬)のはしりのような人ですが、その末裔、13代目の藤原公光が相模守として現在の松田町から東方にある現在の秦野市に来て、その子から「波多野氏」を名乗り、その5代後に松田郷に入りました。
その子供が松田(波多野)有常で有常の子から当松田氏の始祖として本格的に「松田」を名乗りました。
松田氏は鎌倉期以降、色々なところに顔を出して武勇を轟かせましたが(鎌倉 和田合戦・・・)、やはり一番のところは小田原北条の立役者、その配下になってからですね。
のちに北条早雲と呼ばれた伊勢宗瑞が韮山城から小田原城の大森藤頼を騙して急襲し城を乗っ取ったのが、松田郷の南、関東覇権のベースとなった小田原です。
当時大森氏と反りの合わなかった松田一派は伊勢宗瑞に加担しています。以後北条家中、松田家は韮山城以前から付いてきた家臣団の没落もあって徐々に勢力を伸ばし北条家筆頭クラスの家臣となっていきます。
「惣領と庶子」由来 ~地元資料より転記
「松田有常松田郷に住みて領主たり、有常二子あり、太郎某は弟なれども妻の出なるにより太郎として本家を継がせ、次郎某は妾腹なる故に兄なれども庶子として分家す。是惣領庶子に村の名の由りて起これる所以ってなり・・・」
これは奥さんの立場によって子の優劣が判断される例ですね。そして太郎=長子、いや家督相続者。
子供も出生の早さで「惣領」が決まるという訳でも無いのです。
これも戦国期、血の濃い薄いに関わらず頻繁に耳にする逆転劇で後に多様な禍根を残す要因になっています。
画像は国府津松田断層の上、曽我周辺から見た小田原市街と
石垣山一夜城方面。この画像の真逆になります。
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