初期は兄弟で分けました 「惣領」と「庶子」

国府津松田断層について記しましたが、その断層の名にもある松田町に興味深い旧い地名が今も残っています。(場所はここ)

「松田惣領」と「松田庶子」です。地図で言うと御殿場線、小田急線の両駅周辺が「惣領」、西に行って今の警察署あたりが「庶子」ですね。

さすが惣領、今の松田町の中心地になっています。

 

さて、中世の武士の相続については中核となる大部分を継承する者を「惣領」と呼びました。均等とは行きませんでしたが女子でも取分はあったのですね。

 

残りの所領は惣領以外の男子~「庶子」~や女子の間で分割しますが、彼らは一族としてそれぞれ独立した生活を進める一方、戦時には「惣領」の元、集合して一族の敵対集団との戦闘員として戦場に赴いたりもしました。

 

その組織、「惣領」制の統制下から完全に遊離することなどはありえない堅いつながりだったのです。

惣領はそれぞれ権利義務(所領の安堵と納税等)の代表権を持って公的な窓口となり一族を統括していきました。

 

その組織はまさに今流行りの「絆」の語源に近いものがあったと思います。

(「絆」とは離れないよう繋ぎとめる綱の意味です。

もともとは犬や馬などの家畜動物を繋ぎとめておく綱のことで、平安中期の辞書『和名抄』にもその意で使用されているようです)

 

時代の流れで庶子の権利主張やたまたま庶子一統が突出して良田の開発を積極的に行ったりして強大化あるいは庶子への分割が過ぎて(田分け者)それぞれが零細化しました。

 

 そうなれば主たる惣領や他の勢力とのバランスの不均衡等が発生し、惣領制から分化・独立・離散するなど結果的にその制度が破綻に近い状態になってきたことから、家系強化維持のために嫡子の全相続の流れが主流となって惣領制は消えて行きました。

家督を相続した者以外の兄弟は絶対的主従関係となり相続者の家臣・郎党として働くことになりました。

 

画像は松田町、各電信柱の住所板です。

今だにそれらの名称が、それも対で土地に残っていることが奇特なことだと思います。