善得寺城を築いた今川家四代の今川範政は上杉禅秀の乱を鎮圧した功労者で幕府からは天下の「副将軍」とまで呼ばれた人です。
文武両道の人で源氏物語にも造詣が深くその後の武将の有るべき道を示しましたが唯一、悔恨を残したのは「家督相続」について次代に紛糾の種を撒いたことでしょうか。
家が大きくなればなるほどその傾向は強いものです。
嫡男が居なければ家督を悩み、その誕生を希うものですが歴史上たくさんの男子に恵まれればその時は安泰安堵しても、ゆくゆく誰に家督を譲ろうかで悩み後世大揉めになってしまうことがあります。
今川範政もその轍を踏みました。今川家は後世もその辺りの家督相続で時々一統の結束に綻びを見せています。
まず大抵はそのまま成長の早い長子にしておこくとが外部的にも家内的にも安泰に近いものがあるのですが(そのことが暗黙の了解)、それ以外の若年者が「可愛すぎるから」といって指名したりすると後々、問題が芽をもたげるということです。
歴史を振り返れば、もし何事も無く成長してくれていたら長男の家督相続については異論の余地は無いところでしょうね。
花倉城のスグ南の麓の「華蔵院遍照寺」、今川範氏・氏家父子の墓所よりも少しだけ南側に長慶寺があります(場所はここ)。
長慶寺は太原雪斎が中興とされている寺で富士の善得寺公園に続いてこちらにも雪斎の墓があります。
雪斎の無縫塔の隣には今川範政のお父さんの今川家3代目、今川泰範の墓が並んでいます。
泰範父範氏が死去し、まもなく兄の氏家が続けざまに亡くなって建長寺から還俗して家督相続しました。
次男以下の子供たちを僧籍に入れておいて事あれば還俗させるというのもよくあるパターンです。
それにしても一旦仏の道に入っていた者が武家の棟梁として乱世に戻って跋扈すれば、恐ろしいほどの冷徹さで戦場を駆け回って差配するのはいかにも凄いことですが、その手のことは歴史上ごく普通の事でしたね。
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