当流の教学研究所の「真宗入門」のテーマで「蓮如上人御一代記聞書」の八十九条が紹介されていました。
「信心獲得」(しんじんぎゃくとく)を第1のテーマとして真宗を日本有数の教壇に育て上げた蓮如さんの心情が簡潔に綴られています。
蓮如さんの数ある言の葉の中から日々僧俗皆だれもそうあるべきであるというそのスタンスは、「仏法の中に身を置くべし」と仰っています。
これは御開祖の言葉、
「仏性すなわち如来なり
この如来、微塵世界にみちみちて・・・・」
に応じているかの如くです。
「微塵」とは今風にいえば粒子状物質「pm2.5」を連想しますが、その物質とは大気汚染や健康に有害な超微細物質ですので私たちの周辺にみちみちている「仏性」=「仏」という意味からして違いますね。
とにかく目に見えないが着実に体に染み込んでくるという点では同様ですが。
「仏法を聞いてもわからない」という声に対し、昔から「仏法は耳で聞くな、仏法は毛穴からしみこむ」と言うのは、きっとそんなところをも含んでいるのかと思います。
私はこう解釈しています。
~仏法を聞いて理解できなくても、まったくOK。
「仏を体感する」という自らの行為、そしてその場の空気に浸って、目で見て感じ、それらを重ねていくうちに無意識に手を合わせて頭が下がり、称名を口ずさみ、知らぬ間に報恩と懺悔の心があなたに芽生えてくる。
何より自身の姿が見えてくる。
だから直感的「理解」なんてまったく必要ない。
口だけで「悟った」「解脱した」と吹聴する者こそが胡散臭いのだよ。~
第八十九条
人のこころえのとおり、申されるけるに
「わがこころは、ただ、かごに水を入れ候うように、
仏法の御座敷にては、ありがたくもとうとくも
存じ候うが、やがて、もとの心中になされ候う」
と、申され候う所に、前々往上人、仰せられ候う。
「そのかごを水につけよ」と。
わが身をば法にひてておくべきよし、仰せられ候う。
現代語
ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、
「 わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、
仏法を聞くお座敷に居る時は、ありがたい、尊いと思うの
ですが、その場を離れると、一滴もたまることなく、たちまちもとの心に戻ってしまいます 」 と申しあげたところ、
蓮如上人は、
「 その籠を水の中につけておくがよい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」 と仰せになったということです。
画像は蓮如上人に倣って教如上人が記した
「在家用正信偈双幅」(豊田市 養壽寺様蔵)。
正信偈の「本願名号正定業」からの八句を好んで書したのも蓮如さんと同じです。この書面をすすんで門末に配布していました。
本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
如来所以興出世 唯説弥陀本願海
五濁悪時群生海 応信如来如実言
この場合の「如来」は釈迦如来のことで転じて
「仏法」「仏心」ですね。
その如来の教えの本質こそが「阿弥陀如来による本願」。
釈迦如来はそのことを伝えるためのみにこの世にお生まれになったのです・・・。
要するに真宗の神髄ということでしょうか。
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