お伊勢参りの一ノ宮、東海道五十三次「桑名」に往時の城の様子が描かれていましたが、私の桑名来訪の時、城の周辺には例の「焼き蛤屋」など1件すらも見ることはできませんでしたが・・・。てっきり江の島の雰囲気を連想して露店の屋台が連なって香ばしさなども漂う所と思いきや全然違う上品な宿場町でした。
現在は桑名城址は「九華公園」として市民の散策の場となっています。
揖斐川が流れ天然の要害に建つ桑名城の始まりは戦国期の「桑名三城」と呼ばれた頃。
伊藤武左衛門の東城、樋口内蔵の西城、矢部右馬允の三崎城のうち、永正十年(1513)に伊藤武左衛門が築城した東城がこちらの九華公園、桑名城の原型ということです。
桑名は当時「十楽の津」と呼ばれ、各地より商人の集まる自由交易を謳歌する地でした(「楽」は楽市・楽座の「楽」)。
よって信長も秀吉も家康も西の「堺」と同様に重要地点としてこの地に価値を見出していました。
慶長六年(1601)、関ヶ原後に当山釋妙意の叔父と云われる本多忠勝が初代の桑名藩主として入りました。現在の桑名の町割り~慶長の町割り~は彼の手によるものです。
家康が当初に武闘派の彼を此の地に入れたのはそういった「要衝」の意味があったからでしょう。
忠勝は1604年には城と構造物、堀等を完成させています。
その桑名城は四層六重の天守が多数の櫓、多聞櫓によって囲まれていたといいますが「河川背後の天然の要害」は低地というハンデもあいまって以後度重なる水難に遭って時々の藩政財政を圧迫し続けました。
この地には当地相良、田沼意次の敵(かたき)、松平定信が強引な力で白河より転封してきています。
雪の白河より元々御先祖が居た桑名に戻りたかったのでしょう。
「十楽」と呼ばれる、温暖で交易も賑やかな地、桑名もいざ大雨ともなれば折角の田や蓄財、家屋も流されて苦労が少なくなかった場所ですね。
いいな、いいなと羨んで、人とは「隣の芝生」が青く見えるものそうかんたんに「うまい話」は転がっていません。
④の大砲は詳細不明と⑤の案内にあります。51基あったといわれる櫓の跡にある案内板でした。
⑥~は本丸石垣跡。
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