御用米曲輪かわらけの続きです。
何故にこの遺跡からこんな瓦が出てきたのでしょうか。
そもそも御用米曲輪という施設は幕府の考慮した小田原という地の重要性に関わっています。
小田原周辺、箱根という要害に設けられた関は、厳密には現在の国道1号芦ノ湖脇の関所だけでは無く仙石原・根府川・矢倉沢・川村(現山北町)あるいは谷峨(現山北町)の関所を意味しました。
幕府は江戸防衛の橋頭保としての意味合いを小田原に担わせたのです。そのため「公儀の城」という立場が色濃く御公儀御用米はじめ穀類、塩、銭、武具などを収納する厳重な収納庫を建てる必要があったのです。食糧の備蓄は戦時のためだけでは無く飢饉対応にも使用されました。
よってこの御用米曲輪という遺構はそれらの備蓄用蔵跡なのですが、その発掘調査の過程で更にその下から戦国時代の庭園をはじめとする遺構が出てきたというのが今回の説明会の趣旨でした。
さて、葵御紋入り瓦の出土は、現在の小田原城天守閣、本丸に稲葉正勝が小田原城を拝領してから将軍家光用の御殿を築いています。
何故か家光時代に入ると「明智光秀」にかかわる人々を優遇するかに見えますね。
元々、稲葉正勝の父、稲葉正成は秀吉の家臣でその命により小早川秀秋の元で家臣として働くようになりましたが、その後、関ヶ原では密かに工作し小早川秀秋の東軍への寝返りのお膳立てをした人でもあります。
徳川家にとって大殊勲者であり、当然に(小早川滅亡によって浪人時期もありましたが)以降引き立てられて出世していきます。
しかし彼の出世の本当の理由は奥さんのおかげであるのは当然の事。
チャキチャキの明智家一統、あの斉藤利三を父に、稲葉一鉄を祖父とする斉藤福、春日局(かすがのつぼね)です。
春日局を母とする稲葉正勝がその要害地小田原を与えられて家光が立ち寄るための滞在用邸宅「家光御殿」を本丸に建立したのです。
何と言っても家光は実母のお江よりも乳母のお福(春日局)の方を慕ったといいますから。
その御殿の瓦に徳川家葵紋が各所に飾られていたことは容易に想像がつきます。
御殿の瓦礫類がそれらの下部にあたる曲輪に紛れ込んでいるのはそのためです。
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