「牧之原」について「諏訪→牧野」への家康による諏訪原城の名称変更についてブログに記しましたが、この台地をかつてから「牧野原」と呼んでいたという記録は、奈良時代に諸国に「牧」を置くことが定められて、当地に兵部省管轄の官牧(官営の馬の放牧地)として確保されたことがその名の由来であるとされています。「牧」は後に荘園化したり京都の寺社や有力貴族そして武家の台頭からその時代時代における奪い合いの対象になっていきました。
さて大阪は枚方市に楠葉(くずは)という地名が残ります。
古来「楠葉牧」と呼ばれた場所です。
「仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、
人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ」
(参照 大谷大学)
この、ほのかな仏の出現を浄土信仰的につづった歌は、
平安から鎌倉への過渡期、後白河法皇編纂による
「梁塵秘抄」の「今様」(いまよう)と呼ばれる当時でいう歌謡集の中のものです。
五木寛之の「親鸞」シリーズで各所でこの「今様」が情緒的に使われていましたね。
この他、楠葉(くずは)の地について歌った今様を一つ記します。
当時の様子と男どもの若い女子へ向ける視線が今と変わりないところが面白いですね。でも高値の華で自分たちには手が届かなそうというところも漂っていてほのぼのとします。
「楠葉の御牧の土器造り、土器は造れど娘の貌ぞよき
あな美しやな あれを三車の四車の愛行輦に
うち載せて、受領の北の方と言わせばや」
「くずはのみまきのどきつくり
(お上の領する「牧」であるため「みまき」と記していま
す) あの娘、ここで土器づくりなんかさせるにはもったいないほどのカワイコちゃん。お顔、むちやくちゃキレイ。
たくさんの婚姻車の列に婚礼の車(愛行輦~あいぎょうぐるま)に載せて、「受領」(ずりょう)の「北の方」(奥方)にでもしたいものだ」
「受領ずりょう」は国司の役職名。
長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四等官のうちトップの長官クラス、のちの○○守(○○のかみ)等の呼称の元となりますが平安期では現地赴任の役人のことを言います。
引継ぎの時、前任者から色々と「受領引継ぎ」したことからそう呼ばれたともいいますからこれら国有地の管理長官として赴任すればひと財産できるほどの大金持ちになれたのでしょう。
その娘こそ、そういうお金持ちの奥さんにでもなれるほどの美貌であるとちやほやと噂した庶民の歌ですね。
「北の方」についてはこちらを参照。
画像は牧之原台地に上がる斜面に広がる茶畑。
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