かなしきかなや 道俗の
良時吉日 えらばしめ
天神地祇を あがめつつ
卜占祭祀 つとめなす 「正像末和讃」
親鸞聖人の御和讃からです。
御開祖の時代から
「一心に仏に手を合わせているはずの坊さんからご門徒まで
日の良し悪しに気を取られ
色々な信仰らしきことを行って
迷信の中に生かされる」
という開祖の皮肉がこもった和讃です。
時々思いついたようにこの件には触れたくなってしまいます。
そんな開祖の、「人々の信心」について、悩みにも似た現状をうたの中で吐露されていることにも驚きですが、ずっとそれらの「仏教徒でありながらの土俗信仰も奉ずる」という日本人の姿(両刀使い・二足の草鞋)は今も脈々と続いています。
昨日のブログで日の良し悪しを選んで行動に遅れをとった平氏(富士川の合戦)について記しましたが、いわゆるこのことは「ハレ」の日たる(初陣・出陣)その日を選択するということでしょうか。
「ハレ」とはぶっちゃけ「晴れ」のことでもありますが、この意は「非日常」ということです。
柳田國男が「ハレ」と「ケ」について民俗学の見地から「ケ」=「日常」と別にくくっていますがその「ハレ―ケ」(非日常―日常)に続いて後世「ケガレ」などという概念も追加して葬儀式、ひいては亡くなった故人まで「穢れ」であるようなことを言いだす人たちが居たものです。
「ハレにさわり(障り)」があっては「ことが台無し」になってしまうので占いなどによって何かの「決定」をさせることは、その結果責任を曖昧回避するためのより良い方策だったのでしょうね。
ありとあらゆる古(いにしえ)からの由来をすべて否定してしまうという暴挙など滅相もありませんが、真宗坊主としてオカシイと首を傾げるところです。
今でも「私の日常」の中で「穢れ」ということから「ウソだろ?」と思うような色々な難癖に遭遇することがあって多々驚かされることがあります。おそらくどこかで習慣化されて思い込んでいる近所の人またはその手の親類の助言から出てくるのでしょうが・・・。
まず「友引」の通夜葬儀の可否から始まって妊婦が参列してはいけないだとかの民間信仰?に、葬祭場手配の車両など相変わらず「火葬場との行き帰りの道を変える」というまったくくだらないことをやっていますね。
最近は「おかしい」という声が多くあがって見られなくなりましたが数年前まではホールで「塩まき」まで勧められていた始末。
まぁ連想が連想を呼び「死」という厳粛な「非日常」に霊的な力を纏って心の弱い人たちに特殊な「暗黙の掟」を強要させてるのでしょうね。
当然の如くその不思議な精神的「鎖」によってロックされた人の心は悩み、それらから解放されるべく「開錠のための鍵」を求めようとするのです。
それら束縛から鍵の提供までのシステムを最近では「新興宗教」と一言で語っているようですが。
真宗門徒の多い地域での葬儀には赤飯を炊くといいますので考え方としては故人とのそのご縁はまさしく「ケガレ」などではなく浄土に住処を還る「ハレ」の日なのですがね。
当地でも親鸞聖人の命日、報恩講前の各家で催されるお取越しなど今でも大抵、参加者に「赤飯」がふるまわれています。
日々の生活の中、この日は「赤飯」この日は「ぼた餅」、その他、試験に合格したら、学校に入学したら、卒業したら、入社したら、結婚したら・・・と「ハレ」の日には衣装を変えて(ハレ着)、お御馳走。
風邪をひいて寝込んだら「バナナ」なんというのはちょっと違いますか・・・
最近は年がら年中御馳走食べて晴れ着のような上等な服で着飾っています。以前の様な「非日常」をメリハリ無く「日常」化している私たちがいるのですね。
画像は私の日々足元を温める火鉢での悪戯風景。
餅に干し芋などは当たり前。
元日の夕飯でしたがカニを網で焼き①、五六八姫は火の入っていない間に灰浴び②。③は鍋で封鎖するもしつこく中に入ろうとする五六八。
もちろんネコ灰だらけ、部屋の中も灰だらけ。イタズラはもう結構。
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