華道の似合う佐々木道誉(昨日ブログ)は「近江源氏」、または宇多天皇からの流れから「宇多源氏」「佐々木源氏」といわれる出自です。
佐々木道誉は鎌倉末から室町の人ですが別名「京極」を名のります。
同流で犬猿の仲となった佐々木源氏本流の「六角」氏と室町前中期に台頭した佐々木系の二家はいわゆる戦国期近江の守護大名没落、群雄割拠戦乱の負け組の主役となっていきます。
平安末から鎌倉期にかけて近江国蒲生郡佐々木荘を領していた佐々木秀義はその名を馳せた「佐々木四兄弟」の父で東国で挙兵した源頼朝に付き添って戦功をあげています。
その結果本領の近江の他、全17か国の守護となるなど強大な権威を誇った時期がありました。頼朝の奥州征伐にも佐々木一統は遠征し一部そのまま土着したといいます。
東北地方に佐々木姓が多いのはこのためでしょう。
さて、先日のブログ清水町の八幡神社で再会した頼朝と義経は武田信義ら甲斐源氏一統と合流して総勢を膨らませていきますが、京の平家一統は吉日良縁の占いによって出陣を躊躇ってモタモタしていました。
ようやく「官軍」を称する平維盛の追討軍が京都を発ったのは源氏が意気軒昂、虎視眈々。迎え撃つにやる気満々になった時分でした。
維盛は東海道を下って駿河の国に進軍し富士川を前に陣取ります。
官軍平氏軍は途中でかき集めた「烏合の衆」、貴族化した維盛御一行様は富士川にて源氏軍と対峙するまでは良かったのですが無計画の行軍とトップの経験不足、そして遊女を連れての遊び気分に脱落逃亡者多数、夜間の「水鳥の羽音の恐怖」をきっかけで戦わずにして敗走したのです。
この事件から平家はつるべ落としの如くの滅亡への道を辿って行きます。吉日どころか最凶にしたのは人間の判断以外に何もありません。
もっとももはやそういうレベルではなく歴史は平家の滅亡を滅亡するべく滅亡していったと断ずるでしょうが。
画像は富士川西岸より山側→海側の図。
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