厚かましい親子の現説 飛び入り参加

「御用米曲輪」現地説明会の10時集合に遅刻して2回目の1300時からの説明会の参加に気持ちをシフトしていたところ眼下に現場に屯する人々を発見して「これは・・・」と会場に入ったのが1130頃でした。

すると今始まったばかりといった集団が小田原市の担当の方を取り囲んでいましたのでその中に紛れ込みました。

しばらく説明を「ふむふむ」と聞きながら歩いていると説明者や他の方の持つ資料と私が入り口で渡された資料とは違うことがわかりました。

その資料は「宝篋印塔と五輪塔」の資料だったらしくこの遺構に限ったものでは無いこととその手のことなら私もある程度は承知してる内容でしたので「ま、いいか」と思っていましたが、後ろに居た年配の方が声を掛けてきました。

説明者の指摘している資料のページを探している私に向かって

「私たちは小田原城史跡ボランティアグループです。(本当はあなたたちは場違い・・・)あなたの持っている資料とは違いますので悪しからず」と今回は少しばかり「まぁ許してやるか」といった感じで声を掛けられました。

 

 そういえば皆さん定年退職をされたくらいの年齢でその中での最年少が私の高1の次男、その次が私といった感じで目だったのですね。

そもそも一般来訪者向けの説明会では無かったようでした。

道理で時間が違っていたのです。そういうことならそれでよしと最後まで粘って解説を聞かせてもらいましたが、普段顔見知りのグループの中に私たち親子が紛れ込んで、何気なく紛れていたつもりでいても皆さんの方では「コイツらいったい何者?」と見ていたのですね。

 

 

これまでの調査と目的 資料より抜粋

今回の「御用米曲輪」の調査は第4回目の調査でした。

第1回は昭和57年の曲輪の中央平場付近を中心に発掘調査が行われ、曲輪内にあった3棟の蔵の跡や戦国時代の敷石遺構などが確認されました。

第2回は今後の発掘調査のための予備調査で、主に曲輪外周部、御用米曲輪と二の丸の間に存在した御用米曲輪南東堀、北東土塁(旭ヶ丘高校側)上に存在したといわれる蔵跡の位置を確認するための調査でした。

上記調査は平成23年に実施した第3回目の調査まで継続的に行われ曲輪外周と土塁上の3つの蔵の位置が確認されています。

また、この時の調査で石垣を伴う戦国時代の障子堀が確認されています。

 

 今回の4回目の調査では第1回目で確認した曲輪内平場の蔵3棟の位置を改めて確認するとともに蔵に伴う江戸時代の遺構の存在を確認することを主な目的としています。

また第3回で発見した障子堀等の戦国時代の遺構の展開を調べることも重要です。

 

第4回目の調査の途中経過としては江戸時代の瓦積塀や戦国時代の礎石建物が確認されるなどの大きな成果がありました。

また、礎石建物と庭状遺構が確認されたことにより、戦国時代の御用米曲輪が小田原城の中でも極めて重要な場所であったことがわかってきました。

 

第4回目の調査の確認を記します。

①御用米曲輪の6棟の蔵は江戸時代のものである

②上記6つの蔵の位置が確定できた

③江戸時代の蔵自体が数度の建替えの確認できるものもあり

 その下部にもそれ以前、数度の改修が施された戦国時代の

 遺構が確認できた(礎石類の不整合性と多数の出土)

④江戸時代の絵図、記録には無かった瓦積塀を伴う空間が

 あったことを確認した

 ⑤戦国時代の曲輪の形が確認できたとともに、曲輪南辺に

 沿って(野球グラウンドでいうセンター後方、鉄門下部)

 大規模な水池のある庭があったことが確認された

⑥説明できない遺構が多々ある

⑦今後「ホームベース~3塁ベース」下の発掘調査を予定

 しているが上部の江戸時代の遺構があるため下部の戦国時代

 の遺構を調査する方法を思考中(江戸時代の蔵跡の遺構も

 文化財指定を受けているため破壊できない)

⑧一部調査を終えた部位に関しては埋め戻す(雨水による浸潤

 と浸食、霜柱による破壊等から保護するため)

 

 

 

今回のメインイベントは小田原城鉄門下の「庭園跡」遺構の発見と現状公開ですね。

 私が今回の見学で一番に印象に残った点がありましたのでその辺りについて記します。

最上段画像「御用米曲輪トレンチ(試掘調査用の溝)図」の「蔵3」には水路の土留め?に宝篋印塔のベース部(中段画像①)の使用が見られました。その他②と②の拡大図③の如く「五輪塔」の「火輪」部上部を土砂方向にして溝を形成するという特筆かべき構造でした。

 

 宝篋印塔・五輪塔は墓石。石材の不足していた安土城に

墓石が使用されていたことは目にしていますが、小振りの石材をこの様な形で埋設する理由は不明です。

①石材不足

②何の気なしに適当に

③縁担ぎ、まじないの類・・・

 

 説明担当の方は「五輪塔のパーツ部分『火輪』が多く出土しているので『火輪』には何か意味があったのかも。

もしかすると『火輪』ばかりを指定して作らせ、それを使用したかも知れません。そう考えるとより趣を感じます」

とのことでした。

しかしメインの庭園跡(トレンチ図の「庭③」)の水の中にも『火輪』があってちょうどその真上に「このソケット、ここに嵌めてください」のごとく顔を出した五輪塔の「風輪」らしきパーツに目が止まってしまいました。下の画像3点ともトレンチ図「庭③」、①②と拡大③です。

 

 ここは質問すべきところだろうと、図々しくも担当の方にお聞きすると「ああ風輪ですね」と仰るので

「さっきの話と違うのでは?」返すと、

「ここには五輪塔があったのでは・・・」とのことでした。

 

上記の理由は墓石、五輪塔のパーツ取り(フラット面の利用)して使えない「風・空部分」をブン投げたのかも知れませんし、推理すれば眠れなくなりそうです。

しかし下画像①の護岸積石を全部裏返しにして「火輪」なのか「サイコロ」なのか調べたワケでは無さそうですね。

すべてが「火輪」であれば作為的なことも感じます。

史実は何なのでしょうか。とても興味深いところです。