唐突に「御用米曲輪発掘現場へ行ってきました」と言われても何の事だかさっぱりわかりませんね。
それは小田原に生まれて長年小田原に住んでいた私であっても最近になって俄かに耳にするようになった名称です。
昨日のブログにて記しました通り小田原球場が曽我梅林近くの上府中に出来る以前の野球場がこちらにありました。
上記①図赤いラインが野球のグラウンドのイメージです。
その場所を文献通り発掘調査をしたら遺構が次々に出てきました、というのが今回のコレです。
上の②図、右上の部分が御用米曲輪、野球場跡に造られた「駐車場」の名称が消されています。
ちなみにその地図左下の「三の丸小学校」の旧名「本町小学校」は現在の「二の丸広場」にあって廃止された「城内小学校」と合併して名称が変わりましたが私が6年間お世話になった学校であります。
また、かつて私の父が新任教師としてお世話になったのが「城内小学校」でした。
「御用米曲輪」の場所は小田原駅から御堀端通りからでは無く、現小田原城への最短、旭ヶ丘高校の前の道を通ってお城へのスロープを上がる道沿いです。
高校と天守閣の間の窪地がそうですが、このスロープは戦国、江戸期通じて本丸への入路では無かったようです。
天守閣前の広場は以前は動物園。象の獣舎が天守の前に鎮座し、常盤木門を抜けてスグ正面にはライオンの夫婦。その隣はアシカのプールがありました。それらの後ろの崖っ縁には各種小動物と鳥類の檻がビッシリ並んでいたものです。
よって年がら年中天守近くは獣臭が漂い、私の住んでいた国道1号線南側の南町でも夜間、獣たちの不気味な鳴き声を聞くことができました。
現在は元のアシカのプールの天主側にあったサルの檻が1つだけ違和感たっぷりの趣で建っているのみです。勿論サルが数匹健在です。
③の天主閣は象の檻があった場所からの図。そして唯一現存するサルの檻④と二宮神社側(天守南側)にかつてあったヤギとトンビの檻の跡です。
小田原市が立ち上げた「小田原城3Dプロジェクト」が製作した動画がありますのでよろしかったら参考にしてください。
下の画像上段二つが現場。
下段左が「正保図」右が「相州小田原古絵図」です。
御用米曲輪の位置と歴史(現地説明会添付資料より)
江戸時代、御用米曲輪へは小田原城二の丸への北側虎口である「裏御門」より「相生橋」を経て入ります。
御用米曲輪からは「鉄門」(くろがねもん)を通って「本丸」へ至ることができました。本丸へ上るルートは、常盤木門を経たルートと本ルートの2箇所のみでであり、二の丸と本丸の間に位置する御用米曲輪が小田原城内でも主要な曲輪であったことがわかります。また、御用米曲輪には江戸幕府の蔵が存在していたことが知られており、小田原藩にとっては最も重要な曲輪の一つでした。
戦国時代の御用米曲輪の様相は定かではありませんが、通称「正保図」にはこの場所に「百間蔵」と記されています。
小田原北条氏が天正十六年(1588)七月に発給した朱印状には「三間梁、百間御蔵木材・・・」という記述があり、小田原城を描いた絵図としては最も古いとされる「相州小田原古絵図」(通称「加藤図」)にも蔵と思われる建物が立ち並ぶ様子が描かれています。このことから小田原北条時代から「蔵」が所在する場所であったと考えられていました。
江戸時代になると、御用米曲輪は「城米曲輪」と呼ばれるようになりました。それは曲輪内に江戸幕府直轄の蔵が置かれていたことによります。これ以降、蔵の棟数は変化したと考えられていますが、明治時代に入って建物が解体されるまで、幕府の蔵が所在する曲輪として利用されました。
「城米曲輪」は享保十五年(1730)に幕府「勘定奉行所通達」により、名称を「御用米曲輪」と改めました。
御用米曲輪には文字通り米蔵があり、享保十四年の段階では1612石8斗(4032俵≒2419200㎏)の「幕府預かり米」が収められていました。しかし、他にも武具や馬具、弓・鉄砲などの武具や大豆や籾、小豆・塩・アラメなども収められていたようです。
明治時代になると、小田原城は解体・売却されます(明治3年)。
御用米曲輪にあった建物も明治八年までには売却されました。
その後、小田原城が御用邸として利用されると御用米曲輪もその敷地として利用され、大正12年の関東大震災を経て神奈川県所有となりました。
昭和24年、野球場が造られ、昭和57年に野球場が廃止されてからもイベント広場や駐車場として用いられてきましたが、文化庁の指導により平成22年度中に駐車場としての利用を終了し、平成23年度より史跡整備に着手しました。
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