天正六年、当地お隣吉田町の小山城攻めの時、家康の陣場となったのが小山城北東側大井川近くの「八幡神社」です。
前日ブログの「海賊」から、あの忌まわしきお国、いや一部上官による恣意的な自殺推奨システムだった「特攻隊」の隊員もその名「神風」に因んでか「八幡大菩薩」の幡印を掲げていましたね。簡単に彼らの「若い命」の消失を語ることはできませんが今思えばとても気の毒なことでした。
その名の通り「八幡神」自らが「菩薩」を称したという発祥があるので実際、神なのか仏なのか「よくわからん」(しかし「神社」と言っているので神ですね)のではありますが、もともとは仏教伝来から平安期頃のそれらは「神仏習合」で明確な境がありませんでしたから。
何よりその名は「国家鎮護」の祈願の対象であり、「八幡大菩薩」の幡を掲げる事が戦いにおける自らの「正当性」の主張でもあったと思います。
中でも源頼朝の曽祖父の源義家は石清水八幡宮で元服して自らを「八幡太郎義家」と名乗ったほどですし、鎌倉幕府を建てた頼朝も鎌倉の中心に鶴岡八幡宮を置いて武士世界の象徴としました。
また家康の名の「家」は八幡太郎義家から一字をとって銘々したのだという説もあります(征夷大将軍と開幕のために取ってつけた言いぐさなのかもしれませんが)。それ以降「源氏長者」は徳川家世襲となったわけです。
静岡県は駿東郡、清水町の黄瀬川の近くに八幡という地名があります(国道1号線に八幡交差点あり)。
治承4年(1180)、平家追討のため挙兵した源頼朝が富士川の戦いを前にこちら八幡神社に本陣を移し、遠く奥州から馳せ参じた弟の源義経と合流、感激の対面を果たしたという場所です(場所はここ)。
画像は清水町郷社八幡神社の画像と対面石。
以下境内標識抜粋。
治承4年(1180)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。
たまたま奥州からかけつけた弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという・・・ 。
人間、苦労を共にしている時はともに協力して一つの目標に向かうものですね。9年後天下を手中に入れた兄頼朝は非情にも弟をも抹殺してしまいます。
下の画像は鎌倉八幡宮正面、小町のカレー屋さん「キャラウェイ」(場所はここ)にて。「奥の墓道」のレポート、昨土曜日の昼食だそうです。
何とライスはこれで普通盛りですから注文時はご注意。
お腹いっぱい南無八幡・・・。
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