政治屋の戯言に一つ一つ頭に来ていたらキリが無いというもの。
そしてまた、
「語りえないことについては沈黙せねばならない」(Wittgenstein)の通り世界観にあって、あたかも形だけの如くも一介の乞食坊主(おべべは綺麗でも荒んだ心の)たる身であっても
たまたま僧籍にある私ごときがペラペラと雑念を吐露し、その中で万が一にも「宗教」について記す機会を与えられているとするならば、今回のあの発言を嗤ってプリプリして一説ぶったとしても許されるのかもしれません。
まして政治世界の魑魅魍魎の世界のことなぞ「知らぬものか」とやはり本当は何も知らず、これこそ語りえないこととして沈黙して熟考することに利があると一考察するも、そして本年はそれらのボヤキはやめようと心に決めておいたにもかかわらずですが、敢えて一言記させていただきます。
あの特異な世界で大勝したチームの副宰相、AHO財閥の大金持ち、<みぞうゆう>のオッサンが昨日、耳を疑うようなことを語りましたね。
周囲から指摘されて「はっ」と気づいたのかその後慌てて訂正していたようですが「本心見たり」だったですよ。「住んでいる世界がまるで違うな」と感ずる次第です。
ご発言の趣旨は「さっさと死ねるように」という表題でネット上を踊りましたので「ギョッ」とした人もいらしたでしょう。
余命の少ない高齢者や終末期の患者に対する高額な医療費に関連しての発言です。
後から「政府の金で高額な医療をやってもらうと思うとますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなどしないと解決策はない」と自身の考えを語ったもので公の場での発言にはそぐわないので議事録から削除して欲しいとの「訂正」をしたとのことです。
「自身の事」であったとして逃げ口上。赤字国債の増額に、あの政策に付、御口利きタブーだった国営銀行までコロっと掌を返させて、お札をばら撒きまくって、公共工事等すべてに渡る大盤振る舞いの予算を計上したからには、それはそれは財源確保に一番奔走したいところでしょう。
その中で上記の高齢者に関する、特養老人ホームの建設、高額医療費、社会保障費はきっと彼にとっては「死んでいくものたちへの無駄使い」として捉えられたのでしょうね。その辺は手に取るように判りますよ・・・。かつて社会保障費の抑制をめぐって「たらたら飲んで、食べて、何もしない人(患者)の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」と言っていた御仁ですし。
それにあの方、財務相も兼ねていますからね。
そこで強調された「自身の事」という言い訳染みた発言が浅ましいのですよ。
そこには人の(国民の)苦しみの判らない、我が世の春を謳歌するお金持ちの御曹司のバカボンボンの姿を彷彿とさせましたね。
小生、たかだか数年の間ですが坊さんというご縁にあって、多くの方々の「逝去」に立ち会わせていただいております。
生きとし生けるものすべて生まれたからには死なねばならぬことは誰でも承知しています。しかし突然やってくる「そのこと」に人は皆例外無く躊躇するものなのですよ。
「あと少しくらい」あと半年でも1年でもと。家族なら尚更ですが、当人であっても自身の「その時」はどうにもならないような畏怖の感情に襲われるものなのです。
これは間違いなくそうなのです。
あの名僧一休さん(87)であっても最期の言葉は「死にとうない!!」だったというのですから。
それが「本当の人間の心」なのです。
だから「いつ死んでもいい」という平常時の人の発言はそういう切迫した時間的功徳の無い特別な状況では無いのですからまったく違う意味と受け取れるのですよ。
何より意識の無い中、胃に穴をあけられて高額の栄養剤を点滴されて生きながらえる自分の姿を想像することは耐えがたく「その時はこうしてほしい」=「生きたくない」=「死にたい」という気持ちになることは致し方ないのですが、もっとも「先の事など何一つわからない」のですね。
どうにもならないと宣告された病に一所懸命立ち向かっている「愛する者」にそんな感情を抱けるものなのでしょうか。
よって誰にでも人生の浮沈がありますが、その意気軒昂、順風満帆、揚々とした活躍期にある人のその意は子供じみたただの「強がり」の如くです。
もしかすると彼人なりに理解している歪曲した「武士道」精神の標榜の様な気がしますが、そうであったとすればますます嘲笑に値するものと感じてしまいます。世は「維新」だとかの勇ましすぎる言葉が飛び交っているではありませんか。
これも推測ではありますが、そもそもあの人は、
1月20日(日) 午後9時よりNHK地上波で放映された
「終(つい)の住処(すみか)はどこに老人漂流社会」を視聴していたのでしょうね。
そこで私とはまったく逆の意見を持ったというわけでしょう。
どんな内容だったかNHK番組紹介欄から。
『歳をとることは罪なのか――』
今、高齢者が自らの意志で「死に場所」すら決められない現実が広がっている。
ひとり暮らしで体調を壊し、自宅にいられなくなり、病院や介護施設も満床で入れない・・・「死に場所」なき高齢者は、短期入所できるタイプの一時的に高齢者を預かってくれる施設を数か月おきに漂流し続けなければならない。
「歳をとり、周囲に迷惑をかけるだけの存在になりたくない…」 施設を転々とする高齢者は同じようにつぶやき、そしてじっと耐え続けている。
超高齢社会を迎え、ひとり暮らしの高齢者(単身世帯)は、今年500万人を突破。「住まい」を追われ、“死に場所”を求めて漂流する高齢者があふれ出す異常事態が、すでに起き始めている。
ひとりで暮らせなくなった高齢者が殺到している場所のひとつがNPOが運営する通称「無料低額宿泊所」。かつてホームレスの臨時の保護施設だった無料低額宿泊所に、自治体から相次いで高齢者が斡旋されてくる事態が広がっているのだ。しかし、こうした民間の施設は「認知症」を患うといられなくなる。多くは、認知症を一時的に受け入れてくれる精神科病院へ移送。
症状が治まれば退院するが、その先も、病院→無届け施設→病院・・・と自らの意志とは無関係に延々と漂流が続いていく。
ささいなきっかけで漂流が始まり、自宅へ帰ることなく施設を転々とし続ける「老人漂流社会」に迫り、誰しもが他人事ではない老後の現実を描き出す。さらに国や自治体で始まった単身高齢者の受け皿作りについて検証する。
その上で、高齢者が「尊厳」と「希望」を持って生きられる社会をどう実現できるのか、専門家の提言も交えて考えていく。
その寂しい番組に登場するそれぞれご年配者たちの歩まれた紆余曲折だったのであろうその人生の重みを感じざるを得ないわけなのですが、特に近親者のおられない大井さん(確か88歳)というお爺さんが連れ添いに先立たれたあと、住み慣れた家を引き払って介護施設のたらい回し状態だった生活をせざるを得ないという現実は厳しいものがありました。
介護施設の利用が続き、蓄えは殆どゼロ。そして何とか一応の定住ができる施設に入所できた折り、お決まりの『「その時」あなたはどうしたいのか』というアンケートに記入する場面がありました。
要介護で車椅子の寝たきりの大井さんは「命のある限り延命を行ってほしい」とおっしゃっていました。それこそが「その時」を間近に感じている人の切実な感覚なのです。
一所懸命生きるというのが仏教の道、お国の為に「早く死ね」と疑われる(いや本意でしょう)発言は腹黒いのかオッチョコチョイなのか、品位を疑いますよ。興味の世界ですがあのお金持ちの人の「死にざま」(変に思わないでくださいね「生きざま」と同意程度とお考えください)を最後まで拝見したく存じます。あそこまで言い放った方なのですからさぞかしや素晴らしい「その時」を見せつけてくれることでしょう。にっちもさっちも行かなくなったらハラでも切りますかな? 知りおうせぬことですが。
そう思えばとりあえずあの方より長生きしなくては・・・それを見届けるという励み、大目標をもって私も頑張れます。
あの番組を見て一番寂しかったのは大井さんの住み慣れた自宅の退去時のシーンです。転居時に単身持ち込める品物は限りがあるということで致し方無いのですが、これまで数十年来の思い出の詰まったであろう、箪笥の品物、奥さんの遺品、二人で旅行に行ったときのお土産であろう品々、写真たちをクリーナーの方が次々とゴミ袋に放り込み、ご夫婦のどなたかが使っていたであろう杖を足元に転がして踏み歩き、その品々が詰まっていた箪笥を足を使って粉砕してトラックに積載していました。外で車椅子に座って奥さんの遺骨を抱いて待つ大井さんの目からは涙が溢れていました。
今、特別養護老人ホームの入所待ちの方が42万人。3年待ちとかザラです。圧倒的にホームと介護者の不足が顕著なのです。後手後手に回って手の打ち様の無くなっているという感がありますね、この国の福祉は・・・。
歳を重ねたらみんなその道を歩まなくてはならないのかという不安も大いに湧き起こってきました。
これまで我が国の繁栄を底辺で支えてくれていた功労者の「希望とその尊厳」はやはり「ゼロ」。カネが有り余って先生!先生!と崇められているあの人たちには絶対判りえず、「語りえない」ことでしょう。
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