彼にとって懐かしき鳥羽の街を伊勢湾を通して一望する丘の上に九鬼嘉隆の首塚はありました。
首実検の後、当地に帰還して埋葬されたものです。
首塚があるということは得てして「胴塚」がある訳でしてその場合、その胴塚の場が死した場所であることが多いものです。
やはりこの答志島、「首塚」からそう遠くない場所に胴塚はありました。
以下胴塚の看板より。
「初代鳥羽城主で、水軍の将として活躍した九鬼嘉隆(1542~1600)は関ヶ原の戦いで、石田三成率いる西軍方についたが戦いに敗れ、ここ答志島和具の洞泉庵で自刃した。ここに残る胴塚は慶長五年(1600)にその子守隆が建てたものを嘉隆の孫隆季が寛文九年(1669)に再建されたものである。この五輪塔は鷹さ1.55mの花崗岩でできている。
なお、その刀の血を洗った血洗い池跡が近くにある。・・・。
①が首塚より胴塚に向かう途中の展望台より。
遠くに知多半島が見えるの図。④自刃の地と⑤の血洗い池。目と鼻の先です。ここには広場があってお地蔵さんの祠の回りには井戸端会議のご婦人方が勢ぞろい。
都会では見られない日本の原風景を拝見させていただきました。
信長の手先となったとはいえ本願寺とたくさんのご門徒を苦しめた九鬼嘉隆さん、それではまたの機会に。
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