角界と賭博とそのスジの人とおまわりさん 

お相撲さんの世界でのそのスジの人たちとの付き合いや賭博、八百長などのお話は忘れた頃に出現して、前年などにもその手の事案がスキャンダラスに大きく報じられていましたね。

 まぁあの手の興行的なものにややこしい人たちが絡んで大きなおカネが動いていることはうすうす感じとってはいましたが・・・。

 

ですから私にはあの世界を「大層美しいスポーツ世界」のイメージを感じていません。

父も、祖父もその格闘技にあまりにも没頭し、年間それらが放映される頃となれば長時間TVを占拠して絶対他に譲ることは無かったという姿を見続けされていたというその反動から、今の私の相撲嫌いがあるという一つの理由であることは確かだと思います・・・。

 

 さて、昨日のブログ岡部元信と孕石元㤗の墓碑のスグ目の前に「安東(西谷)文吉」の墓があります。

安東とは今の駿府公園の北側にある静岡市葵区安東の地名(場所はここ)です。

 

文吉は幕末に名を馳せた博打打。「二足草鞋」を大看板、駿河を裏で支配したともいっていい大親分です。子供の頃から大柄で角界に入門するなどしますが駿河に帰ってからは博徒の世界に入って任侠の道。体の大きい人が強くて人気があったのでしょう。

賭場の運営で財力を蓄えて、めきめき頭角を現した頃、代官所では彼に十手を預けるというウルトラ技をやってのけます。

 

 十手が持てるのは、与力や同心。その下に非公認の「岡っ引き」がいるのですがいきなり代官所が大親分文吉に十手を持たせた(警察権を与える)のは、「ややこしい連中のいざこざを取り締まるにはややこしい連中のトップ」にやらせるという、少しばかり無茶苦茶な話ですが「超高率のいい方法」を選択したのだと思います。

昔から暴れん坊で手を付けられない子供に委員長をやらせるとクラスがまとまったりその性質が従順で道徳的に変化し組織にとってプラスに働くなどということを聞きます。

「銭形の親分」もその番組に出てきた「三ノ輪の親分」もその手のイメージでしょうか。

 

庶民クラスのいざこざはそのスジの大親分が仕切る、これ今では考えられませんが江戸末期の常識でした。文吉は通行手形等の発行権も与えられたというので、殆ど組事務所が役所機能。

そのような歴史は明治に入ってからも残っていましたので、いわゆるそれらの方々の繋がりが「歴史的に正しいつながり」といえばそうかも知れません。

また、大金持ちになった文吉の趣味は相撲観戦で、その時の大盤振る舞いは大名を凌いだそうです。