「人生最期」どころか「地球の最期」風のまったくもって根拠のない風説を各テレビ局、流していましたね。
その期日は過ぎたのだそうですが、その事案で一番に騒動になったのは中国だったと聞きました。たくさんの逮捕者も出ているそうです。
ソ連共産主義時代にロシア聖教が抑圧された通り、現在中国では勿論儒教的教えに近い仏教は細々と残るものの「宗教」への政策者の嫌悪感は同様で、共産党政権が永らく続く中国国民の宗教観といえばかなり薄くなっている様な気がします。
あの仏教徒の多い民族への弾圧が顕著であるのも「仏」への崇拝が国家権力者への崇拝への支障になるとの考え方だと思います。
まあ仏教的教えにある者たちは我が国戦国時代の一向宗門徒のように「すべてが平等に」(南無阿弥陀仏)の旗の元に時として先鋭化し、支配階級と闘うということは歴史上、各国で起こっていますので、そういった芽を事前に摘み取る意味でも宗教への規制は必要なのでしょう。
よって国の一本化した「正しい教え」の欠落している中国民には日本人以上に新興宗教への敏感な傾倒はあることと思われます。おかげ様で我が国は聖徳太子が仏教を国教と定めて以来今もなお殆どの国民は仏教徒であって海外からは温和で友好的な「仏教国」であるとまだ何とか思われているようです。
やはりその手の「終末論」というのは殆ど「宗教」ですね。
昔からその風の事を吹聴して人心を揺るがす輩の出現は枚挙にいとまがありません。手前味噌ですが、よってそんなインチキ話、絵空事を俄かに信じることが無いように小さいうちから子供たちには「家の宗教」というものを伝えていかなくてはならないのです。
無神論の形成こそ、本当はみんなが嫌う中国等の共産主義独裁政権に通じるものがあるのですよ。
ところが最近は「オレって、無神論者じゃないですか」などと例の、相手が「そんなこと知らないよ」といったことを断定的に「そうである」如く投げかけるあのワケわからん話し方でもって胸を張って言う姿が増えていますね。
無視論者が増えると案外新興宗教の入信者が増え、根拠のない宗旨の分散化によって烏合の衆と化し、為政者も好き勝手がやりやすくなりましょう。
そうです無神論者と親が胸を張ってはいけません。家の宗旨、仏教について興味が無いからといって無神論を吹聴することなかれ。
子供たちに家の宗旨を早くから教え、自らが手を合わせて膝まづく後姿を子供たちに見せなくてはならないのです。
高邁に何でもできる、鼻高々な背中は(たまたまそういう境遇にあったとしても一時的です)伝播させてはいけません。
その謙虚なスタンスこそがすべてを幸せに導くはずです。
テレビ局もあのインカ帝国の作り話(その国のカレンダーの更新が無かったことから始まった)を時間稼ぎのスポット記事に登場させて面白可笑しく脚色して煽っていたのはアホとしか思えません。大抵のテレビ局で取り上げていましたことは残念でした。
さて、標記はスティーブ・ジョブスが語った言葉。
彼が17歳の時にその言葉を耳にして日々鏡を見ながらそれを思い出したそうです。
このジョブスの目にした書物とはひょっとして我が国江戸時代、山本常朝あたりの書「葉隠」の一端「武士道」について触れているのではないかと思いました。
「葉隠」には現代人の眼に触れれば大層過激にして、斬新(禁書になったくらいですから)しかし大いに迷える人たちにとっての励みの言葉の数々が綴られています。各人の捉え方もそれぞれあるでしょう。
しかし朝起きて「今日が最期の日」と仮定して一日を過ごすことはやはり「一所懸命」に通じるところがあります。
要は「一所懸命」の積み重ねが人生なのだということをジョブスは言いたかったのかと。
特に私の如く、儀式を差配させていただく身としてはその儀式の内容が同様であってもやはり「一回限り、これが最後」の法要を勤修するという立場にあるのだと肝に命じなくてはなりません。
画像は庫裏のトイレ入り口に掛かる御軸。
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小山昭治 (火曜日, 25 12月 2012)
無神論者は弱い人だと思います。
心に拠り所のない人は
さみしい人です。
でも最後を迎えたら
日頃と同じように振る舞うのがいいのか
最後らしくじっとしている方がいいのか
悩むところです。
自分が死ぬ時はどのように迎えるかを考えられません。
どのような死に方がいいのか
神が与えてくれたようにしかできません。
現在は、与えられた人生をそれなりに
生きていくことだけです。
楽しくもあり、悲しくもあり
腹も立て、感動もして過ごしていきます。
法然上人、親鸞聖人に感謝しています。
上人、聖人??どっち。
今井一光 (火曜日, 25 12月 2012 19:54)
ありがとうございます。
自分の死についてある程度理解ができたとしても、
①重大事案だけにその時になってみなければ気持ちはわからない
②いつ何時、どのような形で訪れるかなどまったくわからない
という理由から「我が死」についてはあまり考えない、というかそのことはおまかせするのが一番と思っています。
どちらにしろ家族みんなの世話になることは確実ですが、欲を言えばあまり手をやかせたくないというところでしょうかね。
おそらくそれも無理でしょうが。
気持ちくらいはいつでも「一期一会」「死んだつもり」で事にあたらなくては。