数字でゲンを担ぐ人がいますね。
仏教では特にラッキーナンバーは指定されていませんし、
「この数字は縁起が悪い」という考え方は無いように思います。
数字に縁起をこじつけるのは近年になって博打打が適当に言い出したことからでしょう。
4と2で「死に」とこじつけて忌避すべきものと決めつけ、また、ラッキーセブンの「7」は現在どこの世界でも幸運をもたらす数字としてもてはやされています。
そしてまた、それが大して結果として幸運をもたらしているワケでも何でも無いことをも皆さん承知しているのですが、相変わらずその手の話を耳にしますね。
また「厄年」という考え方もその手のこじつけでしょう。
「厄」というものが私たち真宗でつね日頃使用する「無常」という意として解釈すれば、その厄年というものにいかに根拠が無いことか。
当流は言ってみれば「いつでもあぶない」という考えが本であって「その歳に限ってあぶない」などというのは少々当てずっぽうに過ぎて的を得ていないと思います。
「七五三」などは、おかげで我が子はうまい具合に「三歳まで生きさせられた、次は五歳が目標、次は七歳が・・・」と子供の成長を祝うものですが、何もこの奇数の歳にお祝いしなくてもいいのです。これもいつでも生きている、生かされている事を祝って感謝しつづけるのが本でしてその歳に区切ってお祝いするのはオカシイのでは?という考え方ですね。
この奇数が縁起が良くて偶数は何故か具合のいい数字では無いという思想は中国系(道教?)、大陸からの考え方です。
その考え方は意外に広く伝播し今でも各所で見受けられます。
植木屋の仕事では葉にしろ枝にしろ「三残し、五残し」と言って枚数本数まで指定されていますし、茶道でもその手の作法は暗黙として残っていますね。庭石など絶対に偶数は無いですね。
その奇数縁起担ぎの思想に西洋の「七」尊重の習慣が混入したのが現代なのでしょう。
しかし偶然なのでしょうが仏教には「六道」の思想がありますね。
「七こそが完全=仏」の如く六つの道・・・地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道といわれる人間界の「迷の道」から解脱して「仏となる」という意で、人が亡くなったあと七日おきに審判会が催されてそれが七回続いて満中陰(中途半端が満たされる)=四十九日を迎えるという考えに繋がっています。
(御釈迦さんが生まれてすぐに七歩歩いたからとの説がありますが・・・)
真宗で「七」と言えばそれは決まっています。
「七人の侍」ならぬ七人の坊さん。
画像は当山本堂余間、「七高僧」の御軸。
真宗の寺には聖徳太子の御軸とともに100%掛かっている
ものです。
「七高僧」は御開祖親鸞聖人が選んだ七人の先達(善知識)です。
お馴染み「正信念仏偈」や「高僧和讃」で讃えられていますね。
基本は「弥陀の本願を信じ念仏申せば仏となる」をモットーに生きた師であり、自らの教義と著作が残されている方々です。
①龍樹・②天親 (インド)
③曇鸞・④道綽・⑤善導 (中国)
⑥源信・⑦源空 (日本)
の七人です。
⑥源信は恵心僧都、⑦源空は法然上人のことですね。
どうでもいいことに付け加えて・・・
私は割り切れる数字が好きですね。
根拠は平等に仏の恵みを分配できる機会が多いということで
しょうか。
7―5―3では喧嘩になりましょうよ。
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