ここも今川本拠 今川範氏・氏家父子の墓 花倉

駿河守護今川家2代目、九州探題今川貞世の兄の今川範氏(1316~1365)が現島田市大草の今川城より、こちらの藤枝、花倉の地に居を移したのが文和三年(1354)と云われています。

 

範氏が父の初代今川範国よりも早くに(五十歳)亡くなってからその嫡子氏家(三十歳)もすぐに亡くなってしまいます。

よって御祖父さんの範国が次男の泰範を鎌倉建長寺より還俗させて三代目としました。ブログ(今川貞世今川城慶壽寺)のおさらいです。

 

この花倉の郷に曹洞宗のお寺、遍(あまね)く照らす光の寺、これは阿弥陀如来のサブネームと言っていいのかも、「遍照光」とうたわれる遍照寺があります(御本尊は未確認ですが)。

山号は「華蔵」(けぞう)、読みをかえればこれも「はなくら」ですね。

 

 このお寺は創建は京都泉涌寺(せんにゅうじ)の流れで当初は真言宗。

今川城慶壽寺とは創建が同じ範氏で住職がまた両寺院兼務だったといいますのでこちらに範氏・氏家父子の墓が出てきた(昭和48年)のも頷けます(島田大草の慶壽寺にも範氏のお墓がありました)。

 

五輪塔は前述の慶壽寺のものよりも遥かに大きなものです。

大きな左側の五輪塔が今川範氏、右側が氏家のものと看板に記されています。

それによると、これら墓石は1377年に起こった山崩れにより寺院敷地が埋まって本来墓地中央にあった墓石も破損したり(破損は五輪のパーツ「地・水・火・風・空のうち火と水」とありますがどうみてもベースとなる「地」の部分が新しめですね)埋没していたそうです。

 

 埋設地は現本堂須弥壇地下付近で、範氏の墓石の西側に氏家の墓石が埋まっていたとのこと。

その後また身内の争いや武田の兵火でもお寺が荒れています。

画像①は遍照寺結界石と本堂。 

 

今川範氏 官位 上総介 中務大輔

 

1351年 父範国に次いで駿遠二国の守護職に

1352年 鎌倉より西駿へ。六号(島田)の岸城、落合城の土 

     岐勢を破る。土岐氏本城徳山城を攻め大津城構築

1353年 慶壽寺創建 八幡宮創立

1354年 拠点を花倉(藤枝)へ