遠江・駿河守護初代今川範国の二男、今川貞世は室町将軍足利義詮・義満に仕えました。
貞世の名は義詮時代に名のっていましたが義詮が没したあと「了俊」の法号を名のります。
義満時代になって九州に尚も勢力を保った南朝勢力に対して鎮西、九州探題として下向、一時は九州平定という快挙をやってのけました。
駿河今川を継いだ二代今川範氏(実績から云って実力は貞世であったため名目的「二代目」とも)の次男今川泰範が三代目を継承しますがこの泰範と貞世が駿州遠州の「半守護」となって今川家守護職を継承します。
ちなみに今川泰範の次男での家督相続は本来の嫡子で兄の氏家が早世したための「還俗」でした。
還俗(げんぞく)とは一旦僧籍に入った者が元に戻ることを言いますがまず大抵歴史上この言葉が出たら「放棄した家督を継ぐこと、あるいは家督争いに参加すこと」ですね。
嫡子以外の男子が早々に僧籍に入り兄や継承者に従順を表することは当時の倣いでもありました。
文化人、ことに歌人「了俊」としても名高い今川貞世、連歌の師匠は三河足助、成瀬氏の元祖です。(→鬼瓦にまつわる →足助次郎重範)
また、徒然草の編纂に加わったという説もあるようです。
画像は袋井は掘越の祥雲山海蔵寺(場所はここ)。
先日ブログに記した久野城や可睡斎に近い場所になります。
了俊開基のこのお寺に了俊の供養塔は建ちます。
1700年代中頃に催された了俊三百三十回忌に建てられたとのこと。
このお寺には小倉百人一首より四首をとった了俊直筆の「歌切」(うたぎれ)が残っていて袋井市の文化財に指定されているとのこと。
表札を拝見しましたがご住職の姓は「今川」でした。
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