小夜中山の鎧塚 中先代の乱は今川の元

小夜(さよ)の中山は東海道三大難所の一つで箱根、大井川につぐ旅人泣かせ、難渋を強いる場として古くから名を知らしめた場所です。

このブログでも8/299/21と記させていただいています。

 

 山内一豊が家康を接待した茶亭と「こちらの夜泣き石」(色々な場所に<我こそは夜泣き石>・・・とあります)のある久延寺さん(場所はここ)の境内からしばらく西に向かうと、その石碑を道の左側(南側)に見つけることができます。

 

 建武二年(1335)鎌倉幕府14代執権北条高時の子の時行が、信濃の諏訪頼重等に擁され、鎌倉幕府再興を目指して挙兵したのが中先代の乱。

先代(北条)と後代(足利)の間、二十余日ですが一時的に鎌倉を占領しましたのでこの名がつきました。

この戦闘のドサクサで足利尊氏は武門、源氏長者の誉、開幕の印でもある征夷大将軍の地位を後醍醐天皇より引き出しています。この二人の仲がおかしくなったのはその後からですね。

 

 足利義氏の庶長子として吉良家を興した吉良長氏の二男である国氏が今川四郎を名のります。その子が以後今川宗家嫡子の幼名として相伝させる「龍王丸」の名を名のらせたのちの今川基氏です。

 

 鎧塚伝承では追捕方の今川基氏の子、頼国が北條時行の家臣の名越(北條)太郎邦時を討ち取ったのがこの場所とあります。

 

 時行軍は鎌倉占拠後、戦線を伸ばし鎌倉軍の敗走を深追いしたところを態勢を整えた尊氏軍に一掃されてしまいました。

此の地に討取った名越の鎧を埋めたということですが、後世それらしき遺物は出土せず代わりに鎧塚何某と記された石が出てきたそうです。

 

この戦いのあとの論功が今川氏が駿河守護職を継承する礎となりましたが基氏の長男の頼国、 次男の範満、三男の頼周はこの戦いの後の追捕戦でいずれも討死しました。

 

 頼国の子の頼定は丹後・但馬・因幡の守護、頼国末弟の範国が駿河・遠江の守護に任じられました。

この今川範国が駿河今川の初代となります。