「万石浦」の名が仙台藩主伊達忠宗が「この湾を干拓開墾すれば一万石の米が取れる」と言ったことに由来すると記しました。
伊達忠宗は実際にこの海を干拓したわけではありませんしコメの収穫を得たのでは無いので所詮その話はタラレバであって、結局はこの「1万石」という石高は無かったワケですね。
まさに収穫ができると思って(石)高を期待することを「高を括る」と言い、程度を予測しまた転じて、大したことはないと見くびることを最近ではそう言っています。
要は「高を括る」の意は今では殆ど「油断」の意の様に使われていますね。
「油断」という言葉は私としては自らを戒める意味で常に使っている好きな言葉です。いつでもどこでも自分にでも息子にもその言葉は口に出してあるいは心の中で「そうあるなよ」と言い聞かせます。
それでもお恥ずかしいながら、いつでもどこでもポカばかりしている自分がありますが・・・
「油を絶つ」と解釈して近年では行燈の灯の油についてそれを欠かせば途端に暗闇となり混乱に陥る意であるというのが専らの語源説となっています。
しかし最も有力な説は「ゆとり」→「ゆたり」→「ゆたん」の変異だそうです。
「ゆとり」とか「ゆったり」、「まったり」等の語彙は最近よく耳にすることが多くなりました。
耳に優しくまた心地よくあえて言葉でいえば「安寧」の心なのでしょうか。
あくせく働きアリの様に動き回り余裕のない競争社会という世風にあって決して悪くない目指していきたいようなイメージです。
しかしそれらの感覚に浸ろうとすることが「油断」に通じるのでしょうね。
そのことがだんだんと判ってきたような気がします。
己を見つめてみればなるほど年がら年中「余裕」を謳歌していますから。
最近になって「ゆとり教育の見直し」という声も聞きますしね。
仏法の事は(いのちの事は)はやくはやく・・・・拙速でもいいから兎に角動きましょう。出来る限り後回しにせずに。
命には限りがあることですし。「のんびり」なんてしていられません。
そう考えると今度は「ゆとり」という言葉が「何かをしないための」「サボることの」言い訳を潜ませた美辞麗句の様に聞こえてきました。単純ですね。
画像①②が万石浦。③が万石浦に建つホテル華夕美玄関脇に
貼られた応急危険度判定度調査、合格証。
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