今回ツアーの一番最初にお話しをうかがったボランティアの方は牡鹿半島の付け根にある「万石浦」湾内にある「女川温泉華夕美」ホテルの支配人さんでした。(場所はここ)
万石浦は牡蠣の養殖が盛んなところでこの名は仙台藩二代藩主伊達忠宗が「この湾を干拓開墾すれば一万石の米が取れる」と言ったことに由来するとのこと。
この内海でさえもあの狭い海峡から津波が入り込んで牡蠣産業他、鉄道等含め大きなダメージを与えました。
ホテル華夕美はそれでも1階の機械室のみの浸水で収まって避難者の収容にあたりました。
ホテルの人的被害としてはたまたま職場を離れていた方が2名犠牲になったとのこと。一名は未だ行方不明です。
この地区の復興が遅々として進まないのは何より「地盤の沈下」に起因しています。まずは地盤のかさ上げから始めないと話は始まりませんね。
ここ牧之原地区は「隆起」が続いている歴史がありますがどちらにしろその上に建っている構造物に被害は生じます。
どうしても「津波」だけがクローズアップされていますが被害想定は地震そのものの揺れと、地殻変動という足元の脆弱性について考慮しなくてはならないということです。
浜岡原発が津波用の防波堤をせっせとこしらえて経団連のオッサンがのこのこやって来ては「安全安全安心安心」とか言っても電気が必要不要の論議とは関係なく私どもは全然そんなヨタ話は信じていませんよ。
万石浦を望む湾最深部を1.5キロほど東進すると驚愕の女川港へ出ました。
ここは万石浦とは違い太平洋に大きく開いた湾の奥で万石浦沿岸を襲った津波の高さとは比較にならないほど大きなものだったそうです。
googleストリートビュウ マリンパル女川をご覧ください。
ここも地盤沈下で海と陸の境界線がありません。画像②。
向こうに見えるのが新しく建てられた製氷工場です。
漁港再開にはまず真っ先に必要なものですね。
画像撮影場所はかつて家がひしめき合った場所だそうですが今は鉄筋コンクリート製の「箱」が3棟ほど転がっているだけです。
津波時はこのあたりは水深15m以上はあったでしょうか、港の前の高台に建つ旧女川町医療センター(画像④)の一階まで津波が押し寄せたと。
すぐ近くの石巻線終点の女川駅と停車中の車両も流されました。
ここには裁判沙汰になっている七十七銀行の件が興味深いですね。
同地にある同様の金融機関(石巻信用金庫、仙台銀行)では地震発生とともに適宜高台への避難命令を出して全員無事でした。
ところがこの銀行では職務にとらわれたのか行員の避難命令はせずに建物に待機させ結果12人が犠牲になりました。
勿論訴状の理由は「安全配慮義務違反」です。
これは上司や先生(大川小学校の例)などの根本的考え方、職場や教育の世界のみならず「皆の命をも預かっている」という気構えの欠如について問いかけてもいますね。
言い換えれば上に立つものの判断力によって下の者たちの命の有無が左右されるということです。
「安全(と思う) だから待機しよう」その「待機」という言葉はかつて仕事をサボって逃げていた人たちが使っていたことを覚えています。
「待機」では無く「即行動」であることを良く知らしめた一例でもあります。
地形によっても津波の威力が圧倒的に変わる例でした。
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